掲載日 : [2010-10-20] 照会数 : 5897
サラムサラン<34> ある在日の風景〈上〉
関西の古い町に、彼は生まれ育った。にもかかわらず、不思議な九州弁を使う。やたらと、「よか」を乱発する。なぜかと尋ねると、「男らしか」と返ってきた。男らしいということは、彼にとって極めて重要なのである。
遠慮なく言わせてもらえば、強面(こわもて)である。「その筋」の人に勘違いされることも多かろう。すごまれれば、思わず腰がすくむ。だが、いかつい顔の下に、人に対するやさしさと美学を秘めている。
お婆ちゃんっ子だった。ハルメは早くに夫に先立たれ、悲しみを酒にまぎらわせた。自家製のマッカリを、昼からコップであおった。ハルメは少年の彼を、膝に乗せて猫っ可愛がりした。小学校にあがると、可愛い孫にも酒を飲ませた。オンマは、わが子がハルメの家に行くのを嫌がった。 孫会いたさに、ハルメは息子夫婦の家に来て、酔いつぶれた。高校生の彼が背負って家までつれて帰った。夜道を30分ほど、祖母を背に歩いていくのである。ハルメには最も幸せな時間だった。酩酊しながらも、愛する孫の名を何度も呼んだ。 大学に入る頃、ハルメが入院した。意識が朦朧となり、死が迫っていた。それでも、孫の彼が見舞うと、意識をはっきりさせて喜んだ。彼だけがハルメの意識を正気にできるのだった。
彼は女兄弟の中の黒1点だった。父の方針で、女児たちはみな総連系の民族学校に行かされた。彼一人、日本人にまじって普通の学校に通った。 民族教育を受けるべく、やはり総連系の補修教室に通った。だが、金日成の10大綱領を朝鮮語で暗誦させられるのに嫌気がさし、やめてしまった。金正日を「売国奴」と呼んでからは、総連にもいられなくなった。今は民団に所属する。仕事でもプライベートでも、韓国とのつながりが増えた。
韓国語が不自由であることに、悔しさを覚えた。一念発起をして、「60の手習い」のように韓国語の独学を始めたのは、知人に勧められてヴィデオで見た「砂時計」という韓国ドラマがきっかけだった。
テレビドラマに嵌るなど、婦女子の癖と断じてきたが、彼自身がのめりこんだ。それほど面白い内容なら、すべて韓国語で理解したいと思った。 夜がふけるのも構わず、地下室に設えたAVルームのテレビをフルボリュームにして、何度も何度もヴィデオを再生した。深夜にその姿を目にした夫人は、気が違ったかと思ったという。
お陰で、韓国語の日常会話には不自由しなくなった。既に40代の半ばになっていた。
多胡 吉郎
(2010.10.20 民団新聞)