30代のときに日本大学の史学科で東洋史を学んだ。卒論のテーマは朝鮮通信使。その足跡を調べるために、瀬戸内海や東海道を旅した日々が懐かしい。
特に、広島県にある鞆の浦が記憶に残っている。朝鮮通信使の一行は、鞆の浦の風景を「日東第一形勝」(日本で一番すばらしい景色)と讃えたが、行ってみるとその形容が大げさでないことがわかった。
同時に、数百年後の現在まで景観が維持されていることにも感激した。朝鮮通信使に興味をお持ちの方は、ぜひ鞆の浦に足を運ぶことをお勧めしたい。
その朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日している。第1回目の来日は1607年。それ以来、徳川将軍の代替わりの慶事によく日本を訪れた。
一行の規模は400〜500人。釜山を出航してから船で瀬戸内海を通って大阪に上陸し、淀川を上って京都に着いてからは陸路で江戸をめざした。
沿道では、珍しい外交使節団を見ようと、大勢の人たちが出迎えたという。
その道中では、盛んに文化交流も行われた。つまり、朝鮮通信使は文化使節団でもあったのだ。
私は日本の高校に通ったが、日本史の時間に「江戸時代は鎖国体制だった」と教えられた。事実はどうだったのか。江戸幕府は長崎で限定的にオランダや中国と貿易だけを行っていたが、朝鮮王朝とは正式な外交関係を結んで国書も交換していた。そういう意味では、少なくとも「江戸時代は鎖国」ではなかった。その証明が朝鮮通信使であった。
とにかく、朝鮮王朝と江戸幕府は仲が良かった。この時代の両国は文字通りの「善隣友好関係」を維持していたのである。その際に日本側で尽力したのが通訳として対馬藩に仕えた雨森芳洲(1668〜1755年)だ。彼の文章を読んでいると、次のような記述があった。
「(朝鮮通信使の一行に向かって)王は庭に何を植えておられるのかと尋ねた人がいました。『麦です』という答えを聞くと、『粗末な国ですなあ』と言って笑いました。実際に王は花を植えておられるのでしょうが、(答えた人は)『農業を大切に思うことが古来から君主の美徳』と思って麦の名を出したのです。そうすれば、日本の人に感じ入っていただけると思った次第ですが、かえって嘲笑を受けてしまいました」
こう書いたあと、雨森芳洲は次のように結んでいる。
「なにごとも、(相手の状況を知る)心得を持つことが大切でしょう」
雨森芳洲が、江戸幕府と朝鮮王朝の間に入って一番重視したのが「誠信」である。雨森芳洲はその意味をこう説明している。
「誠信とは『実の心』であり、互いにあざむかず争わず真実をもって交わること」
雨森芳洲はまさに、お互いの違いを認めあい、そのうえで「誠信の交わり」を実行した。彼の功績を高く評価したからこそ、1990年に来日して日本の国会で演説した盧泰愚大統領(当時)も、雨森芳洲を大いに讃えたのである。
康煕奉(作家)
(2013.5.8 民団新聞)