韓国時代劇を見ていると、朝鮮王朝の国王が命令を出しても、臣下の者たちが反対して従わないシーンが出てくる。それは史実にのっとっている場合が多く、正史の「朝鮮王朝実録」には、王に対して高官たちが反対意見を述べる場面がよく掲載されている。
朝鮮王朝は王を頂点とする中央集権国家で王の命令は絶対だと思われがちだが、行政組織の高官ともなると、王の判断が間違っていると確信したら命をかけて諫言する伝統があった。こうした伝統は、現代のワンマン会社も見習ったほうがいいかもしれない。
さて、朝鮮王朝には27人の王がいたが、高官から反対意見を出された回数が一番多かったのは、間違いなく19代王・粛宗だろう。彼は「正室の仁顕王后を廃妃にするとき」「側室の張禧嬪を王妃に昇格させるとき」「張禧嬪を側室に降格させて仁顕王后を王妃に復位させるとき」にことごとく高官から反対されている。
その事情はよくわかる。粛宗があまりにわがままで王室の秩序を守らないので、高官たちがやむにやまれず異議をとなえたのである。しかし、その反対意見をすべて無視して、粛宗は自分の我を通してしまった。
その果てに、1701年9月25日には「張禧嬪を自決させよ」という王命を発した。理由は「その直前に仁顕王后が亡くなったのは、張禧嬪が怪しい者たちと組んで呪いの儀式を続けていたからだ」というものだった。
確かに、張禧嬪は呪いの儀式をしていたのだが、それが原因で仁顕王后が亡くなったわけではなかった。もともと仁顕王后は病弱だったのである。
だが、粛宗は張禧嬪を許さなかった。彼女が世子(王の後継者)の母であるにもかかわらず、粛宗は「張禧嬪を自決させよ」の一点張りだった。
次々と高官たちが反対意見を述べる。
「母が死罪になれば世子が悲しみでからだを壊してしまいます」「臣民たちは世子のために命を投げ出す覚悟があり、命令に従えない場合もあります」「臣下の者たちが申しているのは人情です。なにとぞ考えを変えてくださいませんか」
しかし、粛宗は一歩も引かず、高官の意見に反論し続けた。
「余がこんな命令をする理由はほかでもない。国家のためであり、世子のためなのだ。余が生きている今でも邪悪なことが起きているのに、彼女(張禧嬪)を生かしておけば、あとでどれほどのわざわいとなることか。なんと恐ろしいことか」
「世子は善良だが、その母親は悪徳の人物である。(生かしておくと)そのわざわいがますます手に負えなくなってしまう」
実際に「朝鮮王朝実録」を読むと、粛宗と高官の対立が延々と続く。それでも最後は王が強い。結局、粛宗は「死罪以外に他の方法がない」と強硬に言い切って張禧嬪を死罪にした。高官たちのどんな反対にも意見を変えなかったのだ。
粛宗は、経済の活性化や農地の拡大を実現して、政治的には業績が多かった。部下の意見にはまったく耳を貸さなかったが……。
康煕奉(作家)
(2013.5.29 民団新聞)