掲載日 : [2007-08-15] 照会数 : 5602
<光復節特集>民団の明日を引っぱる青年会
[ 岡山で現地の青年会員と合流した中央本部活動者 ]
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「屋台骨」として…OBから
8・13事態から30年に思う
生活者団体の自覚新たに
青年会が中央本部結成30周年の記念事業として来月には韓国で500人規模のジャンボリーを開催することに、OB会を代表してまずエールをおくりたい。
組織の転換期はほぼ30年を周期に巡ってくる。そのターニングポイントでうまく方向を転換するなり、体質を変えなければ、組織は金属疲労をおこして衰退、もしくは消滅していく。
青年会で組織転換
青年会中央本部が結成された77年2月は、46年10月に民団が結成されてほぼ30年が経過した時点である。当時の民団は、存立すら危ぶまれ、組織混乱から間がなかった。その組織混乱の背景には、祖国統一問題に関わる南北の入り組んだ事情、中でも北韓が一気に優位を確保するために、対南かく乱策動を積極化させたことがある。
民団は、民団の組織破壊の先頭に立ったがゆえに傘下団体認定を取り消された韓青(在日韓国青年同盟)に代わり、健全な青年会を結成すべく、青年会結成に全組織力を結集した。そしてほぼ4年の歳月を費やして49地方本部を結成し、77年2月に中央本部結成にこぎ着けたのである。
新たに結成された青年会が、韓青、韓学同(在日韓国学生同盟)と質において決定的に違っていたのは、構成員の多くが民団や青年運動から距離を置き、その葛藤やしがらみに縁の薄い勤労青年たちだったことである。
こうして誕生した青年会に、大きな試練となったのが8・13事態である。
中央本部が結成された年の8月13日、上野の「池之端文化センター」で、韓民統(現・韓統連)の主導による「海外韓国人民主運動代表者会議」が開催された。首都圏の民団本部から結集した団員100人が会場を取り囲み、抗議のシュプレヒコールを繰り返し叫んでいた。緊急招集された青年会会員は、関東地域が現地に直接集合し、関西地域、中部地域からは、それぞれバスに分乗して駆けつけた。総勢150人ほどが、直ちに会場に押しかけた。
当然、会場は騒然となり、扉は固く閉ざされた。押し入ろうとする青年会員たちと、入れさせまいとする韓民統側との激しい応酬が繰り広げられ、会場の玄関は修羅場と化した。正面玄関からの突入を諦めた青年会員たちは、ビルの裏側に回って塀をよじ登り、2階のベランダから突入しようとしたが、2階の入り口も堅く閉ざされていた。
ベランダに置いてあったシャンペンの瓶などを建物の中に大量に投擲したので、その破裂音が激しく響きわたるなか、しばし突入を試みていたところに、警視庁の機動隊が臨場し、ベランダにいた76人は全員が逮捕された。大量逮捕は大きな衝撃をもたらし、その後遺症は少なくなかった。逮捕者の中には、妊娠中の奥さんが流産してしまった者もいたし、逮捕拘留されたことで失職した者もいた。青年会活動にもしばらくの間支障をきたした。
この事件は決して、突発的に起こったものではなかった。72年7月に民団傘下団体認定を取り消された韓青と韓学同は、その後さらに先鋭化して民団の大会、集会に押しかけては暴力的に流会させたり、民団の会館を不法占拠するなど無法の限りをつくしていた。
民団の方向性提示
それまでの葛藤をよく知らない青年たちの目からみれば、韓国がようやく経済力を伸ばし、長い暗黒の時代から脱出できる端緒が開かれようとしているのに、なぜそれほどまでに韓国を糾弾するのか。
ましてや、海外に出てまで「反韓」「反朴」の大騒ぎをしているのか。これらに疑心と不満をもっていた。また、当時の日本マスコミはこぞって「反韓」「反朴」に走っていた。これらの状況が民団社会には大きなストレスとなっていた。
この事態は民団、青年会に大きな変化をもたらした。まず、青年会と韓青・韓学同の力関係を逆転させた。韓民統の主要な幹部が次々と転向し、彼らの組織は壊滅的な打撃を受けていたし、活動は一挙に停滞化していった。
この事件に関する裁判闘争の記録を『歪められた韓国像に挑む』として題して出版し、それが次第に日本のマスコミにも浸透したことで、論調が大きく変わっていったことも見逃せない。
最大の変化は、民団全体の方向性に大きな変化をもたらしたことだろう。特に青年会は、この事件をきっかけとして本国の政治情勢を客観視する半面、民族差別など自分たち在日自身に問題意識を傾注していった。
理由の一つには、韓民統との抗争が激減したこともある。二つには事件を通じて、同じ在日同胞が本国の政治情勢に影響され、傷つけあうことに大きな消耗を感じたことも否定できない。
そして最後に、これがもっとも大きな理由であるが、青年会を主に構成した青年たちが、それまで民団活動や青年運動に積極的に関与しておらず、世代的にも2世3世が主流となっていたため、それまでの民団におけるしがらみから解放されていたし、比較的自由な発想をもっていたことである。
青年会は1980年11月に、国民年金獲得のための55万人に及ぶ署名を集め、東京・田町の会場に1000人の会員を結集して全国集会を開催した。その席で張聡明民団中央団長は、民団の総力をあげて国民年金獲得のための運動を展開すると宣言し、間もなくして国民年金を獲得することになる。
そして82年には、青年会結成5周年記念運動として「明日をみつめる会」運動を提起し、自分たちのあり方、方向性を徹底的に検証することにした。その検証に沿って青年会運動は展開され、「指紋押捺反対運動」とそれに続く「91年問題」では青年会が先頭に立ち、民団もまたその力量をいかんなく発揮して、いずれも多大な成果を勝ち取った。
5・17事態に奮起
そして青年会で活動した多くの青年達は、活動者として民団に参加していった。その結果、民団は生活者団体としての内実を豊かにし、大きな変貌を遂げることになる。
しかし、30年周期説ではないが、8・13事態からほぼ30年が経過した昨年、「5・17事態」が起きた。韓統連と朝総連が結託し、またもや本国の政治情勢に民団を巻き込み、あわよくば民団を我がものにしようとしたのである。
青年会やそのOBが先頭に立って、民団が営々と築き上げてきた「生活者団体」としての基盤を、根底から覆されかねなかった。この危機意識はOBたちを奮起させた。事態の克服にOBたちの果たした役割は決定的であったと自負する。
民団は今や「生活者団体」の旗幟を鮮明にし、今日なお組織の健全性を誇っている。一方、韓青、韓学同を含む韓統連、そして朝総連は今なお、旧態依然として北韓に追従しながら、ようやくその命脈を保っている。
8・13事態と青年会の関係に続き、5・17事態と民団の関係から私たちが教訓とすべきは、柔軟でしたたかな生活者の視点から、民団の組織基盤をいっそう強固にし、在日同胞のための組織として自主性を確立していくことが最重要課題だという一点である。
最後にこの場を借りて、OBの皆さんには民団の場でいっそうの仲間意識を育み合い、現役の皆さんには30周年ジャンボリーを成功させ、民団の将来を明るく照らし出してくれるよう、願っています。
青年会OB全国連絡会
会長・林三鎬
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「前衛」として…現役から
全国キャラバンを終えて
出会いと対話で信頼築く
千人の青年宅訪問
今より30年前の1977年2月27日、在日本大韓民国青年会が誕生しました。民団における在日同胞青年団体の空白期を経て、青年会が最初に掲げたのは、“青年の結集と連帯”でした。そして、青年会が結成30周年という大きな節目を迎え、新たな未来へと歩みを進めようとする本年、全国方針で挙げられたのは、奇しくも“青年の結集と連帯”としての「青年ジャンボリー」でした。
一方で、在日同胞青年と顔を会わせ、青年会活動への参加を呼びかけようと「全国戸別訪問活動」が展開されています。最も近い短期的な目標に「2007青年ジャンボリー」に500人の在日青年の結集を掲げ、「みんな集まれ!青年キャラバン2007〜80日間全国一周の旅〜」をキャッチフレーズに、全国を巡回するキャラバン隊を結成し、1000人の青年宅を訪問しました。また同時に全国各地方本部においても戸別訪問を実施し、全国で3000人の青年宅訪問を実施しています。
キャラバン隊は5月11日から7月31日まで、近畿・中国・九州・四国・中北・関東・東北・北海道と、全国地方本部を訪問しました。確実に青年たちとの繋がりが広がっているという手ごたえを感じながら80日間の旅路を終えることが出来ました。
全国を巡回しながら、訪問先の団員さんからもたくさんの勇気をいただきました。
「もう何十年も前だけど、私も夏季学校に参加したよ。その時の友人とは今でも親交があるんだ」「私たちは30年前の青年会のサマージャンボリーで知り合い、結婚しました。ぜひ子供にもそうした同胞の集まりに参加してもらいたいという気持ちがあります」「ご苦労様です。私も青年の頃、皆さんと同じように戸別訪問しました。何度も何度も足を運び、粘り強く参加を呼びかけました。あなたたちを見ていると当時を思い出しすがすがしい気持ちになります」「何となく民団から足が遠のいていたけど、あなたたちのように若い方々が頑張っているなら、顔を出そうかな」
実は戸別訪問は短期的な行事への動員には適していないともいえます。行事のお知らせをしたいなら、案内はがきを1枚送れば済みますし、「民団新聞」に掲載いただければ絶大な効果があります。参加の可否を確認したければ、電話をしたほうが速いのです。ではなぜ、最も時間も労力も要する戸別訪問を行うのか。それは、1人の青年と顔を合わせるところから信頼関係を築きたいと願うからでありました。
青年会結成から30年の時が流れ、在日同胞社会は大きく変化し、今や3・4世世代が中心となりつつあります。世代を経るごとに本国との1親等的な繋がりは薄れ、日本国籍同胞の数も増え続け、同胞同士の結婚は減少しています。これらのことは一様にマイナス的な意味合いで語られ、3・4世世代は、民族的なアイデンティティーが希薄であると言われます。
しかし、一概にそう断じてしまうのは早合点ではないかと感じてしまう部分もあります。
確かに、民族的な素養を涵養する機会が少なくなってきているのは事実だと思います。同胞の密集地域や都市圏では、例えば同胞青年の集いを欲している青年にとって、あるいは民族文化を学びたい青年にとって、少しだけ積極的に足を踏み出せば、比較的簡単にかなうところにあるでしょう。しかし、そうした環境にいない青年にとって、民族的欲求を満たすものと出会うのはなかなか大変です。
一方で、時代の流れとともに、民族的な素養を涵養する機会が希薄になればなるほど、青年世代から民族的なものに触れたいと欲する声が切実なものになってきたのも、必然ではないでしょうか。
「いままで同世代の同胞の友人がいませんでした」「県内に在日の集まりはありませんか?」 青年たちと出会い、青年会が彼らに何を与えてあげられるのか。彼らと一緒に何ができるのか。
未来を語り夢紡ぐ
キャラバン隊を終えた今、1人でも多くの青年たちと出会い、対話することの意味を改めて感じずにはいられません。
これまで民団が継続的に地道に積み重ねてきたオリニや中高生・大学生を対象とした「母国事業」は、着実に同胞社会の中で歴史を紡いできました。
そのなかで、20代を網羅した「母国訪問事業」が数年間行われてきませんでした。10・20代は、人間形成において重要な時期であり、同時に、人生において大きな節目を迎えます。進学、就職、結婚…、人生の大きな課題と向き合う上で、在日青年は「自己の出自」に立ち返ります。だからこそ、青年たちは同胞の仲間との出会いや祖国訪問を求めるのだと思います。そうした経験は、一人ひとりの人間形成において、民族的アイデンティティーの芽生えに、強い影響を与えるのです。
国際化が進む中、在日韓国人である私たちは、国際人たる生き方を体現する存在でありたいと考えます。真の国際人たる生き方は、「自己の出自」を深く理解し、自身の歴史的・社会的立ち位置を明確にすることから始めなければなりません。
そして、次代の責任世代である私たち青年層にとって大きな使命は、在日韓国人としての「連帯」と「新たな価値観の創出」です。創造すべき未来は個々人の人生だけに留まらず、社会にさえ広がる可能性をも持っていることに気づかなければなりません。
いつの世も、青年世代にとっての“現在(いま)”は“未来”への担保になります。「在日青年」500人が祖国を訪れ、「自己の出自」を感じ、「未来」を語り、「夢」を描く、9月14日の集結の日、祖国でのそんな風景に思いを馳せて…。
ジャンボリーまで残り30日。
(青年会中央本部組織部)
(2007.8.15 民団新聞)