

「朝鮮人にならにゃいけん」。アボジ(父)の一言が83歳になった今も脳裏に焼き付く。2歳で被爆し、ボロボロの「朝鮮部落」で育った少年時代。今でこそ都市対抗大会に出場する野球チームを擁し、従業員1千人を抱える〝伯和グループ〟を築き上げた権養伯さんだが、その人生は在日同胞の苦難の縮図そのものだ。
広島市内で被爆。3歳の時、家族で韓国に帰ろうと宇品港(広島市)で船を待っていたところ、荷物がそっくり全部盗まれ、船に乗れなくなった。アボジは朝総連の分会長を務め、オモニは女性支部委員長だった一方で、家族は典型的な「朝鮮部落」での極貧生活だった。
高校は東京の朝鮮学校に入学した。日本各地から集まった仲間との話し合いの中で在日同胞の状況など、社会勉強ができた。アボジへの感謝は大きい。
その一方で、「アボジのような父親には絶対ならん」と思っていた。北朝鮮への「帰国事業」が始まったのは権さんが高校1年生の時。「朝鮮に帰れと言い出すしね。本人(アボジ)は赤く染まっとるんやから」。
2年生になると、通学時には日本の高校生との喧嘩が常態化した。権さんは自分のことを「大変な不良少年で、非行少年だった」と言う。朝鮮学校では滅多にないことだが、「退学になったんです」。
宇品に帰った後は長男として、闇焼酎を作り、豚の世話をしながら細々と一家の生活を支えた。広島に朝鮮高校が開校したのはそんな折りだった。「人生をやり直そう」と決心。校長に直談判し、編入させてもらった。卒業後は朝鮮大学へ進学した。
朝鮮大学では、誰からも一目置かれるほど学業優秀で真面目な学生だった。転機はやはり「帰国事業」だった。折りしも、思想教育の授業に疑問を抱き初めていた頃だった。2年生の時、大学側から「帰国を要請された」。これに対しては頑として拒否した。アボジからも強く帰国を促されたが、それも断固として断った。
この一件で大学側の態度が大きく変化した。それまでの「優等生」との立場が、ある日からは「素行不良者」との烙印が押され、挙句には4年生の時に退学処分となった。「22歳から3、4年間は暗い青春時代」を過ごしたと言う。
転機が訪れたのは33歳の時だった。東広島市に移り住み、誰もが敬遠する仕事を始めた。ごみやし尿の収集だ。権さんが卓越していた点は、時代の先を読む力だった。下水道が整備されるにつれ、し尿収集は不要になって来る。権さんはそれを見越し、下水道の管理技術を勉強し、必要な資格も予め取得しておいた。し尿収集業務が終了する際、市からの補償金提示を辞退し、「お金はいりません。代わりに仕事をください」と、逆にお願いした。権さんは「後に繋がるように考えてやった」と振り返る。自らの才覚と誠実さで新しい道を切り拓いたのだ。今では東広島市の下水道全部を管理することに繋がっている。
伯和グループは今や、「食・住・遊・健」の事業を幅広く手掛ける。「食」部門では焼肉、スイーツ・パン、カフェ・喫茶、和食・居酒屋などを多角的に経営。「住」部門は、宴会場を備えたホテルの運営、マンション分譲など不動産、ビル管理、浄化槽などの水管理などを手掛け、「遊」部門ではパチンコ店を経営。また、「健」部門ではスポーツクラブ、クリニックを経営する。
権さんは、公示制度が廃止される2005年まで西条税務署管内において、長者番付で12年連続1位になったことがあり、広島県内で1位になったこともある。
伯和グループの名は県内では知られる存在になっていた。ある時、東広島商工会議所の岡田章会頭(当時)から、経営難に陥った社会人野球チームを引き継いでほしいとの依頼があった。権さんは固辞した。「朝鮮人が出しゃばって」と言われたくなかったからだ。
「社会人野球を地域に根付かせたい。協力するから」と引き下がらない岡田会頭に根負けする形で引き受けたのが、現在の「伯和ビクトリーズ」だ。「やる以上泣き言は言わない」とチーム強化に取り組んだ。この20年間につぎ込んだ費用は約40億円に達する。
30年前に知り合った韓国のスター俳優キム・ヨンチョルさんやイ・ビョンホンさんは、チーム発足時から応援団長と副団長を引き受けてくれている。もちろん無償だ。権さんは「二人には感謝している」と頭を下げる。〝伯和〟に対する視線は劇的に変化した。野球で活躍したからだけではない。地域社会への貢献活動も大きかった。伯和ビクトリーズのユニホームを着て、災害時にはボランティア活動に加わり、暴力追放パレードにも参加してきた。市民が評価してくれ、「見る目が違ってきているのを実感する」と言う。
権さんは韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和公園内への移設に多大な貢献をし、現在も民団県本部の諸活動を支援する。
権利獲得への思いには並々ならぬものがある。「住民」としての権利を得たい、そのためには地方参政権は「なんとしても獲得していかねばならない」と、権さんは強調する。
長女は高校生の時に指紋押捺を拒否して戦った。次女は大学卒業後、公務員を目指していたが、当時、公務員になるには日本国籍が必要。「子供の夢をかなえさせてやりたかった」と、その記憶が原動力になっている。「我々がこんな目に合うのは権利がないからだ」。地方参政権に対する思いは誰よりも強い。
子や孫は帰化をしたが、民族心だけは大事にしている。長男家族と昨年、故郷の慶尚北道青松に行き、墓前でチェサ(祭祀)をしてきた。孫は今、人前で「自分は韓国人だよ」と屈託なく言う。権さんは「普段の行いで韓国人の地位を高めていきたい」と願っている。
被爆地・広島から、差別を乗り越え地域有数の企業を築き上げた経営者は、今もなお、誠実というバットを振り続け、共生社会というホームランを狙う。