掲載日 : [2023-03-22] 照会数 : 2423
「朝鮮民族舞踊の大母」崔承喜を学ぶ
[ 資料を手に講演する李喆雨さん ]
韓半島出身の世界的女流舞踊家、崔承喜を学ぶ公開講演会が11日、都内で開かれた。主催は東京大学総合文化研究科グローバル地域研究機構韓国学研究センターなど。講師として招かれた在日同胞2世音楽プロデューサー、李喆雨さん(84、朝鮮芸術研究所所長)が北韓で公開された資料をもとにその実像に迫った。
講演は①植民地時代の崔承喜(1911~1945年)②北韓に入国した崔承喜③崔承喜の歌と舞踊音楽についての3部構成。
「植民地時代」では崔承喜が公演で立ち寄ったオランダのホテルでしたためた「舞踊通信」が公開された。公演はハーグ市内の劇場「クールハウス」で2日間行われた。崔承喜は「デビュー公演の時より満員の盛況だった」と喜びをつづっている。同通信は元朝日新聞記者の遺品で、遺族から託された。
崔承喜は解放後、「親日派」として糾弾され1946年、36歳で越北。北韓では民族舞踊の理論家と体系化に努め、優れた作品を数多く創作して発表した。その総数は300くらいになるとされる。このうち、代表的な独舞「長鼓の舞」と群舞「バラの舞」については李さんが秘蔵する映像を公開した。
「粛清説」には否定的な見解
北韓では舞踊家同盟中央委員長に就任し、57年には最高人民会議代議員に就任するなど躍進を続けた。だが、一転して失脚する。李さんはそのきっかけとなった「金日成の教示」(1958年10月14日‐作家、芸術家の前で行った演説)をもとに「批判されたのかもしれないが、政治家どうしの勢力争いの結果であり、一舞踊家に降格されたにすぎない」と「粛清説」を否定した。
後に名誉回復を果たすが、李さんはその事実を03年、平壌で会った崔承喜の姪で詩人でもある崔ロサと、その弟で舞踊家のヒョンソプから直接聞いた。
崔承喜が平壌郊外にある「愛国烈士陵」に葬られたのはその年のこと。没年は北韓の公式発表によれば1969年8月8日。墓石には「舞踊家同盟中央委員会委員長」の肩書と北韓芸術家として最高の称号「人民俳優」の文字がハングルで刻まれている。
李さんは崔承喜を「朝鮮民族舞踊の大母」と最大級の賛辞を込めて呼ぶ。その理由については次のように語った。
「植民地時代は女性として成功した元祖韓流アイドルだった。北では作品と教本をつくり、人材も育成するなど、民族的立場で舞踊芸術を完成させた。これほど大きな仕事をした人はいない」
李さんは元在日朝鮮中央芸術団に所属。崔承喜の作品を数多く舞台で紹介してきた。
(2023.3.22民団新聞)