掲載日 : [2019-10-25] 照会数 : 7563
時のかがみ「25年前の日記」桑畑優香(ライター・翻訳家)
本当の友人に…いま残る宿題
「毎日4時間、韓国語を学ぶ生活。進み方は早く、まだ7日ほどだけど英語で言えば中学校の教科書を半分ぐらい終えたレベルだ」
文章の日付は、1994年10月14日。淡いピンク色の延世大学のノートに記されているのは、語学堂留学日記。そう、私が韓国に留学したのは、ちょうど25年前の今頃のことだった。
書斎の棚から発掘された日記には、忘れていた些細な出来事が書かれている。
例えば、電話局に行ったときのこと。韓国語もわからないまま、固定電話の契約に一人で訪れ、辞書の単語をつないで棒読みしたり、身振り手振りで説明したり。「国際電話も契約したい」というと、電話局のおじさんに「お金がかかるからやめなさい」と止められ、結局3時間粘った末、契約に成功した。すでに営業時間を過ぎ、職員が帰宅の時間だったため、男女の職員が車で下宿まで送ってくれたという、恐れ多いエピソードも。同じ下宿の韓国人学生の中で、固定電話を持っていた人は皆無だった。電話局の担当者からすれば、学生が固定電話を持ち、国際電話をかけるというのは、分不相応なことに映ったに違いない。いまさらながら当時の贅沢を反省しつつ、おせっかいで情に厚い懐かしい韓国に胸が熱くなった。
1994年といえば、金泳三政権が発足した翌年のことだ。「催涙弾の洗礼を受けるよ」と留学前に聞いていたにも関わらず、実際にソウルに行ってみると、デモはすっかり沈静化。代わりに学生たちの間で流行していたのは、ヒップポップグループのソテジワアイドゥルと、ペ・ヨンジュンのドラマデビュー作「愛の挨拶」だった。それが、未来の日韓関係を変えるエンタメの芽であるとは、まったく知る由もなかった。
日記帳には、当時のおしゃれタウン梨大で買ったもののイラストも。描かれているのは、かわいくて、スタイリッシュでお手頃価格な洋服や小物などだ。20代の日本人女子にとって、韓国がいかにきらきらした存在に映っていたのかがわかる。思えば、ドラマも、K‐POPもファッションも、一朝一夕にして発展を遂げたのではなく、実はこの頃からじわじわと芽生えていたのだろう。
懐かしさに浸りつつノートをめくり、黄ばんだ紙が貼りつけられたページで手を止めた。その紙は鍾路にあるタプコル公園でボランティアとして日本人観光客のための語り部を務めていた劉載晃さんにもらったものだ。3・1独立運動の歴史が書かれ、最後にこう記されていた。
「タプコル公園という名前の響きは、ソウルの人々にとっては一種独特な感情を喚起させます。日本と韓国の真実の歴史を知ることによって、この響きを互いに理解し合える日こそ、日本と韓国は本当に友人となれるのではないでしょうか」
劉さんは2006年、85歳で亡くなった。果たして、日本と韓国の関係は、真の意味で変わったと言えるのか。25年前の問いかけは、今も私の中で宿題となったままだ。
(2019.10.24 民団新聞)