掲載日 : [2016-12-07] 照会数 : 9570
済州の海女文化がユネスコ「無形遺産」に決定…漁だけでなく儀式や歌など含め
[ 世界無形文化遺産となった済州の海女は現在約4400人と急減している ]
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は1日(日本時間)、エチオピア・アディスアベバで政府間委員会を開き、韓国が推薦した「済州の海女(へニョ)文化」の無形文化遺産登録を正式に決定した。ユネスコの評価機関では10月末に済州の海女文化を無形文化遺産に登録するよう勧告しており、登録は確実視されていた。これで韓国国内の無形文化遺産は19件となる。
登録が決まった済州の海女文化には、漁だけでなく、海女の無事を祈り、共同体の連帯意識を強めるために行われる「チャムス(潜水)グッ」と呼ばれる儀式や、船上で歌われる海女の歌なども含まれる。
同委員会は済州の海女文化について、「地域の独特の文化的アイデンティティーと文化的多様性を見せている」とした上で、「安全と豊漁を祈る儀式、先輩が後輩に伝える潜水技術や責任感、共同作業によって得た利益で連帯を高める活動などが無形遺産として価値がある」と評価した。
済州の海女文化は海洋環境を傷つけない方法で漁が行われる点でも高い評価を受けた。
在日同胞には済州道出身も多いが、元海女やその子孫も少なくない。千葉県南房総で暮らし、元済州海女の後見役を担っている李徳雄さん(関東済州道民協会顧問)は、「社会的に高く評価されていなかった済州の海女が自負心を持てることになり、彼女やその子孫たちにとっても大きな励みになる」と語っている。
「思いやりの伝統」評価
数千年続いてきたと言われる済州の海女文化の優秀性と保全の必要性が世界から認められた。済州人の生活の中で静かに伝わってきた海女の歴史をのぞいてみる。
一生懸命、畑仕事をしても、一度台風が襲ってきたら食べていく術は海しかなかった。海に囲まれた火山島の済州はそんな自然の中で生きてきた。
土壌や変化の激しい気候などによって農業には適さない厳しい自然環境のため、済州の人々は海を味方につけるしかなかった。
荒波と闘いながら生計を続けてきた海女の苦難の生活はまさしく済州を象徴した。
チャンニョ(潜女)、またはチャンス(潜嫂)と呼ばれてきたヘニョの起源について、人々は、人類が海に食料を求めだした原始時代から始まったと推測している。
また、他の学者たちは、「三国史記などにソプラ(渉羅=済州)からヤミョンジュ(夜明珠)が献上された」という記録が残っていることから、三国時代以前から潜水操業が開始されたと推測する説もある。
海藻類を獲るヘニョと鮑を獲る男は済州でも最も過酷な労働をしていた最低階級層だった。
何の潜水装備もなく、裸で潜っての漁だけに、けがも多く、死に至ることも多かった。
海女は、主にワカメなど海藻を採取したが、アワビを獲る男「鮑作人」たちが管理者の搾取で逃亡したことで数が減り、17世紀後半に入ると海女にも多量の献上を強要したことで社会的問題にもなった。
ノルマに満たさないと、父母を捕らえ、棒叩きの刑など処罰を加えることもあった。
海女の一度の潜水は通常1〜2分でこの時間にサザエ、アワビなどを採取する。熟練の海女だと、一度に3分ほど20mの深さまで潜り、1日約8時間、休まず100回程度、水の中を出入りする。
今回の文化遺産登録には海女が海の資源を保護しながら漁をしていることや、「ブルトク」(風を遮るため石垣を組んだ場所)と「ハルマンパダン」(おばあさんの海)に象徴される共同体、思いやりの文化が高く評価された。
海女の数は約4400人
済州島の海女の数は1970年に1万4143人、80年にも7804人いたが、昨年は4377人に減った。急減する海女が「持続可能な遺産」として残すことが今後の課題でもある。
(2016.12.7 民団新聞)