古墳公園として知られる大陵苑を抜け、慶州の東部史蹟地帯に入った。膽星台や月城、雁鴨池など名所がひしめく新羅王京のヘソである。今では公園のように整備され、蓮池を見ながら移動できるのが嬉しい。鶏林もまたその一角にある。古木が茂る林だが、新羅の王族、慶州金氏発祥神話を伝える所だ。
西暦65年、新羅第4代王・脱解王の御世。宰相の瓠公は鶏の鳴く林の中、黄金の櫃が木にかかっているのを見つけた。王が蓋を開けると、中から輝く男子が出てきた。慶州金氏の祖となる金閼智であった。金閼智は聡明で重臣として活躍、7世孫が王になり、やがて新羅の王位を金氏が独占するようになる。王統の父祖の地として鶏林は崇められ、時には新羅を鶏林の名で呼ぶようにもなった。
さて鶏林で黄金の櫃を見つけた瓠公だが、驚くべきことに『三国史記』はもと倭人と伝えている。瓠を腰に下げ海を渡って来たので、その名がついたという。
脱解王は慶州昔氏の始祖とされるが、この王の出現神話にも瓠公は登場する。『三国史記』によれば、王は「倭国の東北一千里」にある「多婆那国」から流れ着いたという。「多婆那国」とは海の龍城国(竜宮)をいうとの説もあるが、丹波や但馬、玉名など、日本の土地を推定する学者も多い。やがて慶州に現れた脱解は瓠公の屋敷を手に入れ、後には王となって、もとは瓠公の屋敷だった所に王宮を築き、月城と称した。
瓠公も脱解王も、海を越えて新羅に定着した。2千年の後、海の先の国から訪れた身としては、大いに気になるところだ。おそらくこれまで語られている以上に、海を越えた人の行き来があったのではなかろうか。
日本側の記録を見ても、例えばヤマタノオロチ退治で有名なスサノオは高天原から降臨する際、新羅に寄ってから出雲を訪ねている。神話とはいえ、両岸の濃密な交渉を推測させる。大和政権に併呑されたとされる古代出雲王朝だが、新羅とは海を挟んで向き合う間柄なので、交流は自然なことだったのだろう。
古の遥かな交流の記憶を秘めながら、鶏林は今、ひっそりと訪れる人を迎える。入り口近くに慶州金氏発祥の由来を記した鶏林碑閣があるが、あとは静かな林が広がるばかり。林を抜ける風に当たりながら、しばし木陰に憩い古代の夢を追った。
前の晩、宿で『三国史記』を読み返した。日本で目にする時とはひと味違う、現地で紐解く楽しさがあった。夜、あれこれと想像をふくらませ、日が明けて町に出れば、古墳を始め、木々や田畑、遠くの山並みに至るまで、太古への思いにこだまを返すような風景が広がっている。
古代史はロマンに満ちているが、現代政治の力学に左右されやすい危うさをもつ。だが慶州にいると、政治の勝った強弁など遠いものに感じられる。太古の昔、国境は遥かにゆるく、人々は自由に往来を重ねていたに違いない。
新羅千年の古都の風格であろうか、この町が呼吸する悠久の時にそっと息を重ねていると、何とも心地よい。鶏林は古代への想いをしなやかに紡ぐ、豊かな林なのだと実感した。
多胡吉郎(作家)
(2013.10.9 民団新聞)