運命分けた出陣時期
福岡の志願兵は半数が戦死
◆身元確認わずか52人
北韓の奇襲南侵によって勃発した6・25韓国戦争に参戦した在日青年・学徒志願兵642人のうち、戦死は135人。この勇士たちの遺骨が国軍墓地(現、国立ソウル顕忠院)に移葬されてから50周年の1日、当地で記念慰霊祭が営まれた。
実は戦死者のなかで身元が確認されたのはわずか52人にすぎない。この遺骨は51年10月、除隊した志願兵が日本に戻る帰還船によって搬送され、いったん建青(朝鮮建国促進青年同盟)の中央訓練所に仮安置した後、駐日韓国代表部の斡旋によって、同胞の崔祐尊住職が営む大行寺(東京都あきる野市)に安置されていた。韓国へ移葬されたのは63年11月19日のことだった。
複雑な経緯をたどったのは、在日志願兵のほとんどが米軍師団に配属されたことで、韓国軍戦死者と認められず、国軍墓地への安葬対象から除外されていたからだ。
◆生還者で在郷軍人会
各部隊に配属された志願兵は51年1月から、負傷兵を中心に部分的な除隊が開始された。日本に戻った志願兵は51年11月5日に「在日韓僑在郷軍人会」(現、在郷軍人会日本支会)を結成した。民団の傘下団体として認定されたのが翌年4月2日(第15回民団中央議事会。現在の中央委員会)だ。
その後、民団や在日韓僑在郷軍人会から「母国のために命を捧げた勇士が国軍墓地で永眠できるようにしたい」との声が高まった。
民団は62年の全体大会(現、中央大会)で「移葬推進委員会」を起ち上げ、韓国政府に本格的な要望活動を展開。約2年近くにわたる交渉のすえ、国防部の配慮によって移葬が実現した。
52人の遺骨のうち、戦闘機操縦士だった2人は空軍墓域に、50人は在日同胞の募金で新設された「在日青年学徒義勇軍墓域」に安葬された。
◆6割強が以北で戦死
戦死者の6割以上にあたる83人が韓半島の北側地域に配属され、中国軍、いわゆる人民志願軍との戦闘に遭遇した志願兵たちだ。その多くは第4陣と5陣で出陣した九州、関西を中心とした西日本地域出身だった。
休戦協定が締結されても、北側地域で不明・戦死した志願兵の遺骨を捜すのが不可能だったのは言うまでもない。
◆5陣編成祖国戦線へ
在日青年・学徒の総志願者は4620人にも達した。この中で、北韓を支持していた朝連(在日朝鮮人連盟)に在籍した者や親族が在籍者または朝連活動者と因果関係が深い人は除外された。
在日青年・学徒志願兵の大ざっぱな出征経緯を見ておこう。
志願兵が最初に出征したのは50年9月12日。明治大学生を中心とした関東近県の在日韓国学生同盟の血書志願者78人は、9日に明治大学に接する駿河台ホテル(現、山の上ホテル)前で出征式を終えた後、米軍朝霞基地で基礎訓練を受けながら出陣を待っていた。
12日に横浜港を出港、行き先は仁川だ。9月15日に決行された電撃的な仁川上陸作戦に2日目から加わった。
268人と最も多く出征した第2陣は関東、関西、中部地区出身の建青中核活動者らで構成、9月19日に横須賀港を出港した。関東、東北、中部、大阪出身者による第3陣102人は9月30日に横浜港を出港し、いずれも仁川港に上陸した。第1陣から3陣までの出征は合わせて448人にのぼった。
◆現地で軍事訓練も
第4陣と5陣は福岡、長崎を中心とした九州と関西地区の青年・学徒で合わせて194人。出征直前には、仁川上陸作戦の成功によってソウルが奪還(9月28日)されていた。戦局はまさに起死回生にあった。
第4陣140人は第1陣出発から約1カ月後に別府の米軍「キャンプモーリー」で基礎訓練を受けた後、10月15日、佐世保港から釜山に入り、現地で50日間の訓練を受けた。
第5陣54人は、さらに1カ月後の11月10日、小倉港から釜山に向かった。しかし、「モーリー」には9月18日から入所していた。他陣とは異なり、45日間にわたる体系的な軍事訓練を経てからの出陣で、唯一、正式な軍番が付与された。
この九州出港の志願兵が参戦したのは韓国・国連軍が38度線を突破して北上を続け、平壌を占拠した後、中国軍が北韓を支援し人海戦術で一大攻勢をかけようとする、戦争が第3段階に突入した頃だ。
配属は米軍第3師団および7師団となった。この師団は米兵と韓国人兵の混合部隊だった。地理や地形などを把握している韓国人兵はカチューシャ兵とも呼ばれ、米兵との意思疎通を図る通訳や道先案内も兼ねていた。
◆包囲され多数犠牲に
2つの師団とも東海側、東北地域の元山、興南、咸興へと北上するが、11月下旬、北韓軍を支援する中国軍12万人が国連軍を包囲した。この大包囲網から抜け出す撤収作戦が最大の激戦と言われる「長津湖戦闘」で、援軍に加わっていた米軍7師団所属の志願兵が大挙犠牲となったのだ。
北側地域の戦場だったため、休戦後もしばらくは行方不明者扱いとされていた。韓国陸軍本部が戦死者と確定したのは、92年11月19日。翌年3月に国立墓地(65年に国軍墓地から昇格改称)に83柱が追加建墓された。
ただ、祖国のために命を捧げたものの、戦場が北側だったことで遺骨は未だに埋もれたままだ。生存者も高齢化が進み今や80〜90代である。
在日学徒義勇軍同志会の李奉男会長は「前線地区の展望台から北側を眺めるたびに、北の地に眠る戦友を思う。いつか統一され、彼らの遺骨を発掘しこの顕忠院に安葬してあげたい気持ちでいっぱいだ」と唇をかみしめている。
(2013.10.9 民団新聞)