タクシーで行く先を告げる際、思わず「金春秋の墓まで」と言ってしまった。さすがに慶州の運転手、即座に「武烈王陵ですね」と答え、ハンドルを切る。王になる以前の名がつい出てしまったのは、ドラマ「善徳女王」で馴染んだためもあるが、王子時代の外交での活躍がその人への興味の中心だからだ。
外交家としての活躍が始まるのは642年。この年、新羅は旧伽耶地域の領土を百済に奪われたが、金春秋は百済に対抗する援軍を要請しに高句麗へ赴く。高句麗が領土割譲を欲したので交渉は決裂、金春秋は監禁されるが、金 信が軍を率いて救助に向かったことで釈放された。
『日本書紀』によれば、647年には倭国を訪れている。大化の改新(乙巳の変)から2年後、日本の政局は流動的であった。この年、新羅では 曇の反乱があり、善徳女王が没した。乱は金 信が平定したが、祖国の激震下に金春秋は倭国まで足を運んだ。親百済から新羅寄りに方向転換を促したのだろう。
翌648年には唐へ向かった。百済討伐の援軍派遣の要請が目的だが、新羅の礼服を唐式に改めることを提言するなど、譲歩の姿勢を見せることで唐の信頼を得た。
面白いのは『日本書紀』でも中国の記録でも、容姿端麗と書かれていることだ。微笑を絶やさず、話術も巧みだったという。イケメン王子がスマイルを武器に外交に奔走、これが複雑な国際環境の中、新羅が抜きん出る要因ともなった。武の金 信と文(外交)の金春秋が手を携えて奮迅したからこそ、三国統一への道が開かれたのである。
武烈王陵の入り口でタクシーを降りた。課外授業で訪ねる子どもたちが多いからか、武烈王の結婚の逸話を漫画で紹介する案内板が掲げられていた。金春秋が金 信と蹴鞠を楽しんでいた時に服が破れ(金 信が故意に裂いたと言われる)、服を繕ってもらった金 信の妹と恋に落ち、結婚したという。新羅の両輪を支える金春秋と金 信は、こうして血縁関係にもなった。後には金春秋が娘を金 信に嫁がせてもいる。
654年、真徳女王の死去に伴い金春秋が王位につく。新羅第29代王・武烈王が誕生した。660年には唐・新羅連合軍が百済を滅ぼし、翌661年、高句麗との戦争のさなかに王は病を得て陣中に没する。高句麗を倒して新羅が三国統一を達成するのは、それから7年後のことだ。
境内に入ると、堂々とした墳墓が日を浴びて輝いていた。円周114㍍、高さ8・7㍍、善徳女王の墓よりも数段大きい。その間の国の発展ぶりが如実に見てとれる。墳墓の近くには亀の台座の上に6匹の龍が絡み合う碑石が置かれている。ここに武烈王の名が刻まれていたので、墳墓の持ち主が誰であるか判明したのだ。
今回の旅の間、ドラマ「大王の夢」の看板を町のあちこちで見た。新羅ものでは最新のシリーズだが、チェ・スジョン扮する主人公がまさに金春秋=武烈王であった。
境内をひと回りして、再びその人の墳墓の前にたたずんだ。日本の飛鳥、唐の長安まで足を運んだ人である。東アジアを渡る大きな風を感じた。
多胡吉郎(作家)
(2013.10.16 民団新聞)