端宗の流刑地、陸の孤島のような清泠浦で夕暮れを迎えた。寧越の端宗スポットとしては荘陵という陵墓が欠かせないが、町に一泊し翌朝訪ねることにした。ローカルバスに乗れば、市の中心部から10分とかからない。
若き王から王位を簒奪した世祖とその取り巻きたちの端宗への仕打ちは苛酷だった。賜死にしただけでなく、死体は東江に投げ捨てられた。厳命により、つい先日まで王だった人の遺骸に、誰も近寄ることができなかった。
だが、この事態をあまりにも不憫に感じた者がいた。寧越戸長の嚴興道である。葛藤の果てに、嚴は決意した。「為善被禍吾所甘心」―善をなすことで禍を受けねばならぬのなら、自分は甘んじてそれを受けよう…。
嚴は息子とともに深夜に川に赴き、密かに端宗の遺体を収拾した。そして町の北、冬乙旨山にあった嚴家の墓所に埋葬した。万が一、お上に知られれば父母、兄弟、妻子など三族が皆殺しにあうので、嚴興道は家族の者以外、誰にも語らなかった。
荘陵の境内に入ると、すぐ右に陵墓へと通じる坂道があった。道をたどって坂を登りきると、しばらくは尾根伝いに奥に進んだ。その先に土饅頭を盛った墓が現れた。嚴興道の命がけの忠義によって葬られた端宗の墓である。
事情が事情だけに、王の墓としては明らかに小ぶりだ。今では石像の武臣や動物が墓の周囲を囲んでいるが、埋葬当時は王者の墓所の体裁は整えられていなかったはずである。王陵として整備されてなお、山あいの丘にぽつんと立つ墓は淋しげに見える。
時の流れとともに、悲劇の王に復権の機会が訪れる。1698年、朝鮮王朝第19代王・粛宗によって名誉回復がなされ、王として追尊されることになった。端宗という名もその時に諡号されたものである。墓は王陵として扱われることになり、荘陵と名づけられた。実に、その死から241年後のことであった。
墓から尾根伝いに戻らず、真下に向かう坂道を降りた。坂の下に丁字閣(拝位庁)と呼ばれる建物があるが、これは第21代王・英祖の時代に、祭祀をあげる祭壇を備えた場所として建てられた。名誉が回復され端宗への追慕が広まるにつれ、王陵として整備が進められたのである。
平地を入り口の方に戻りかけると、嚴興道の忠義を讃える旌閭閣があった。やはり英祖の時代に建てられている。端宗復権とともに、嚴の陰徳も陽の目を見たのである。
英祖の後を継いだ正祖(イ・サン)の時代には忠臣閣がたてられ、端宗のために犠牲となった人たちの位牌が祀られた。癸酉靖難のクーデターから端宗の死に至る4年間の激動の中、重臣から官僚、宦官、女官に至るまで、総計268人もの人々が命を奪われている。権力闘争といえばそれまでだが、犠牲者の数には驚かざるをえない。
政治とは非情なものだ。悲劇の王を筆頭に、理不尽な死を迎えざるを得なかった人々の無念を思うと、背筋が寒くなる。時あたかも初冬、周囲の山を埋める木々は既に葉を落とし、底冷えのする風が蕭々と吹き渡る。端宗の死を悼む叫びが、山々にこだまするかのようだった。
多胡吉郎(作家)
(2014.2.12 民団新聞)