祖国を守るという一念で日本での生業と学業も中断し、愛する家族を離れて韓国戦争に参戦して身を投げた642人の在日韓国人義勇軍参戦勇士は大韓民国の誇らしい護国の歴史だ。 在日学徒義勇軍の勇士たちは仁川上陸作戦を皮切りに元山上陸作戦、長津湖戦闘と興南撤収作戦、白馬高地戦闘などで赫々たる戦功を立てた。 休戦70年の節目にことし6月、国家報勲処が部に昇格することで政府は国家象徴政策としてどれほど報勲が重要なのかを示している。 国家報勲部を導いていく朴敏植初代長官に「報勲」「在日学徒義勇軍」への思いを聞いてみた。
朴敏植国家報勲部長官に聞く
◆6月5日、国家報勲部に昇格したが、国家報勲部昇格の意味と変わるところはどんなものがあるのでしょうか?
1961年に軍事援護庁として出発し、設立62年目に尹錫悦政府の報勲に対する強い意志と報勲家族と国民の声援に支えられ、報勲家族の長年の念願だった国家報勲部が出帆した。
多くの国家有功者は報勲処長の職位、または報勲処の地位はを自分たちに対する礼遇と同一視する傾向があった。そのため、長官級と次官級を上り下りした過去62年間を自分たちに対する冷遇として受け入れるしかなかった。
このような側面で、私が思う報勲部昇格の第一の意味は、国家のために青春と命を捧げて献身した国家有功者の方々を国家がきちんと最後まで責任を持って礼遇するという確固たる認識を有功者の方々と全ての国民に植え付けることだ。
また、国家報勲部は大韓民国政府で19番目に設立された部署で、慣行どおりなら行政各部の儀典序列で最後の19番目に位置するべきだが、新設組織であるにもかかわらず9番目に位置することになった。
これは尹錫悦大統領が普段から「報勲と国防はコインの裏表」、「報勲文化は国格」とし、報勲に対する確固たる哲学から始まったもので、政府が国家象徴政策としての報勲がどれほど重要なのかを示している。
国家報勲部昇格により長官は国務委員として国務会議審議・議決に出席、必要に応じて直接部令を制定、関係省庁と対等な立場で協議し、国家有功者に対する礼遇を強化し、報勲政策を一段階格上げできるようになった。
さらに国防部が管轄してきた「国立ソウル顕忠院」を70年ぶりに国家報勲部に移管し、全国12の国立墓地が「国家報勲部」の管轄になった。
特に世界10大経済大国の国家報勲部として、これまでの量的成長に相応しい先進国としての「報勲外交」を果たすことになった。
これは大韓民国を守護のために共に戦った歴史、自分たちが守り抜いた大韓民国の発展ぶりに自負心を感じる参戦勇士、祖父の参戦を誇りに思い、韓国に親近感を持つ孫・孫娘まで、一つひとつが貴重な外交的資産であり、参戦国の彼らに手を差し伸べることが「助けてもらった国から恩返しをする国」ことこそが内的な品格ではなかろうか。
◆今年、長官の新年の辞で「報勲の国家アイデンティティーの象徴として100年後もその崇高さは続く国家の核心」とおっしゃっていましたが、長官が後世に伝えたい報勲文化はどんなものですか?
7月27日、国連軍参戦の日記念式典で尹錫悦大統領は「今日の大韓民国は国連軍の犠牲と献身、そして血のついた軍服の上に立っている」とおっしゃったように、前世紀試練の歴史から我が国を救い出すことができたのは軍服を着て戦った軍人のおかげである。
また災害、事故のような予期せぬ状況で国民の生命と安全を守るために最善を尽くし、時には自ら喜んで犠牲になる警察官と消防士の献身も欠かせない。
このように、叫びから国家を守る軍人、いつ訪れるのか知らない危険から国民の命と財産を守る警察官と消防士の方々は制服がいつ死装束になってもおかしくない。
消防士、警察官、軍人といった制服公務員の制服には献身さと、時には自分自身を犠牲にするという意志と覚悟が込められている。
制服公務員に対する尊敬と感謝は当然のことであり、これは単なるキャンペーンや政策程度ではなく、大韓民国が今後作っていかなければならない一つの文化である。
国家がこの方々に対し最高の礼遇を行い、そのような行動が国民に最も名誉なものとして受け入れられることは初代国家報勲部長官の私が後代に伝えたい報勲文化である。
戦死者の遺骨奉還に努力
◆6・25在日学徒義勇軍はペンの代わりに銃を持って祖国を救うという気持ちで韓国戦争に参戦し、多くの方々が亡くなりました。世界的に似たような事例が少ない在日学徒の義勇軍に対する長官の考えと参戦・戦死した義勇軍及び遺族に対する国家報勲部の礼遇を伺わざるを得ません。その部分について教えてください。
北韓の南侵で危機に瀕した祖国を放っておくわけにはいかなく、救国の一念で海を渡って祖国の戦場に向かった642人の「在日学徒義勇軍」に国家報勲部長官として尊敬と感謝の意を表し、在日学徒義勇軍がみせた勇気と献身は、長らく伝承なるべき大韓民国の大切な精神価値だ。
国家報勲部(当時軍事援護庁)は設立1年目の1962年に独立有功者と在日学徒義勇軍を報勲対象者に編入した。これは6・25戦争当時、戦場に向かった在日同胞に対し、国が行った礼遇で国家として道義的責務であった。
1981年から在日学徒義勇軍に補償金が支給され(戦死、又は負傷した場合、1950年からそれぞれ戦没軍人、戦傷軍人として礼遇)、1985年からは国外に居住する方々と遺族にも補償金が支給されている。
他にも就職支援、教育支援、長期療養給付、医療支援、国立墓地埋葬(顕忠院)等々国家有功者として礼遇と支援は続いている。
◆2015年から在日民団は義勇軍同志会日本支会の主管で長津湖の戦いで戦死した護国英霊たちを追悼しています。在日米軍からも追悼祭に参席し、その方々の崇高な意思を受け持っていますが、長津湖の戦いで戦死した方々の遺骸でも故国に帰ってくることを願っています。その方々の遺骸奉還にについてどのような見解をお持ちかお聞かせください。
3年1月間続いた韓国戦争は、熾烈を極めていたが、その中でも「長津湖の戦い」は単一戦闘のうち最も多くの犠牲が多かっただけに、最も熾烈な戦闘の一つとして記憶されている。
中国共産軍の介入により包囲状態に陥った興南撤収作戦で在日学徒義勇軍の崇高な犠牲は国家報勲部長官として深い追悼と尊敬の意を捧げる。
長津湖戦闘はもちろん、韓国戦争で戦死した全ての護国英雄の遺骸を探すことは、国家が当然果たすべき責務であり使命だと考え、そのために国防部遺骨発掘鑑識団と協業している。
引き続き遺骸発掘と共に護国英雄の魂を慰め、まだ未収拾状態の韓国戦争戦死者の帰還を願う気持ちを込めて「護国の英雄帰還行事」を行っている。
70年以上の長い年月、故人に対する思いと悲しみを胸に潜め、生きてきた遺族らに心の底から慰労の言葉を差し上げる。
まだ名も知らない山や野原に眠っている護国英雄たちがもっと早く帰還できるように最善を尽くす。
また、国家報勲部の出帆と休戦70年を契機に、依然として家族の元に帰れなかった国軍戦死者12万1879人を記憶する「最後まで探さなければならない121879太極旗」バッジをつけるキャンペーンを行っている。
バッジデザインは韓国戦争の戦死者を祀った箱に塗布された太極旗形状に着目し、1番から121,879番までの固有番号が付与されており、国民の誰でも参加できる。
また、毎年6月護国報勲の月に合わせて「最後まで探さなければならない太極旗」の数が減った結果を国民に公開、国家有功者に対し国家は最後まで責任を尽くす覚悟である。
◆最後に学徒義勇軍として参戦された方々の大多数が亡くなり現在は5人だけが生存しています。この方々が亡くなったら在日学徒義勇軍同志会も遺族会に変更される可能性も排除できない状況だと思います。今後、在日学年度義勇軍同志会に大韓国家報勲部の支援方向はどのように変わるかについてもお知らせください。
1952年サンフランシスコ条約締結により主権を回復した日本政府が「在日学徒義勇軍」の入国を拒否し、大韓民国に残った方々が「在日韓教学徒義勇隊」を結成した。
以後1965年社団法人在日学徒義勇軍同志会が当時援護処認可により正式に設立され、1989年には国家有功者団体法を改正して7番目に公法団体に属し、今日に至る。
ただし在日学徒義勇軍同志会は国家有功者本人のみ会員資格がいるが、現在5人だけが生存しており、団体活動に困っていると聞いている。
これに対し、国家報勲部は73年前の階級と軍番もなく危機に瀕した祖国を救おうと日本での全てを諦めて大韓民国に来てくださった642人の在日学徒義勇軍の功績と名誉、そしてその崇高な精神を未来に繋げていけるよう、様々な方法を検討している。
在日学徒義勇軍に対する各種追悼・瀋陽活動などを円滑に遂行できる財団法人記念事業会の設立も一つの方法になりうる。
2008年「『独島義勇守備隊支援法」に基づき設立され現在、活発に活動を行っている独島義勇守備隊記念事業会議の事例ある。
73年前、在日学徒義勇軍が行った崇高な威国献身が大韓民国の誇らしい歴史として記憶され、その過程でみせてくれた勇気と愛国精神が未来世代の手本となるよう国家報勲部長官として最善の努力を尽くす。
最後に民団新聞読者の方々も大韓民国国家報勲部の多様な報勲政策にたくさん興味を持っていただき、在日学徒義勇軍同志会の活動にも多くの声援を願う。
(2023.8.15民団新聞)
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