掲載日 : [2020-01-29] 照会数 : 5953
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<36>(牛窓のお茶屋跡、栗橋関所跡)
[ 「栗橋関所址」石碑 ] [ お茶屋跡の表門(牛窓・岡山) ] [ 栗橋宿(日光街道) ] [ 「関所番士屋敷跡」の説明板 ]
町の開発で資料と風景に齟齬
文献に基づいて「朝鮮通信使の痕跡」を巡り撮影をしてきたが、町の開発によって資料と風景が合わないことはよくある。
岡山県の牛窓のお茶屋には、通信使の三使が5回も宿泊したという。その由緒ある建物は今はないが、建物の土台になった石が残っているらしい。私は朝鮮通信使の資料を展示する牛窓海遊文化館で、お茶屋跡の場所を聞き目的地に向かった。古い町並みのくねる道沿いに古民家が続く。行き交う人に「お茶屋跡」を尋ねると、赤レンガの牛窓文化館の前だと教えてくれた。
ところが海遊文化館で聞いた石垣となると、どの石がお茶屋跡の物なのか、さっぱり判断がつかない。近くに住む老人たちに聞いてみたが、適当な答えしか帰ってこなかった。
表通りに面した武家屋敷風の土台の石は、最近の物のようだ。裏側(海側)に廻ると微かに歪な石積みを見つけた。私はその部分だけを接写して、再び海遊文化館の人に見せた。だが、学芸員でないので詳しいことは分からないと言う。ただ館の資料には、海に面した箇所とだけ記されていた。
私は「関所番士屋敷跡」の取材で、JR栗橋駅(埼玉県)で下車をした。資料では栗橋町北に、その石碑があるらしい。とは言っても地方での土地の区画は広すぎる。真夏の炎天下、人に出会うこともなく、営業マンのようにインターホンを押してまで聞くこともできない。やっと洗車中の年配の人から情報を、得ることができた。
しかし数年前まで利根川の土手の上にあったが、堤防強化工事に伴い「何処に行ったか分からない」。場所だけでも記録ができればという思いだった。
ところが数百メートル歩いたところに「関所番士屋敷跡」の木柱の古びた説明板が目に入り、これはこれはという気分になった。しかし、肝心の関所跡の石碑は見当たらない。利根川の土手は延々と続く。栗橋八幡神社の側で発掘調査をしている人に聞くと、即座に石碑の現在位置が分かった。日光街道の栗橋宿の前だった。ところで、移転を続ける栗橋関所(寛永元年から明治2年)に勤務した番士の住まいは何処だったのか?埼玉県の埋蔵文化財団に問い合わせると、土手の下にあったが盛り土されて地図では説明が難しいと言う。
また、最初に出会った木柱の看板は、村人が作った仮説の場所だった。
ある古代史を研究している人が、私に言った言葉がある。多少の曖昧さがあっても、時代が経てばその場所が真実になるということ……。
藤本巧(写真作家)
(2020.01.29 民団新聞)