「在日学徒義勇軍」と呼ばれる元兵士は、大半が亡くなり、生存しているのは韓日にわずか5人。激変の祖国を元兵士はどう見てどう感じたのか。
韓国戦争(1950~53年)は27日に休戦70年を迎える
ソウル特別市永登浦区国会大路76キル33中央報勲会館内の一角に「在日学徒義勇軍同志会」がある。第19代在日学徒義勇軍同志会の朴運旭会長は今年で95歳。
1949年から日本に留学していた朴会長は1950年6月25日、日本の新聞を通じて韓国に戦争が起きたというニュースを聞いた。
朴会長はそのニュースを聞いて迷いもなくぐ在日米軍に志願した。日本の友人らは「死ぬぞ」「行かないで」と猛反対したが、「祖国のために死んでも構わない戦う」と迷わずに決意して志願したと当時を振り返る。
千葉の幕張に住んでいた朴会長は、1950年9月、在日学徒義勇軍第2陣として仁川上陸作戦に参加した。
その後、米第10軍団に所属し、同年10月に元山に到着した。
多くの学徒義勇軍は高学歴の学生が中心で主に米軍や国連軍の通訳として戦場に送られた。通訳兵として参戦した朴会長はその後、同年11月に長津湖の北側に進出していた米第1海兵師団が中国共産軍の襲撃を受けた。
中でも10万を超える中国共産軍に包囲され激戦を繰り広げた長津湖戦闘で、米軍は2週間の戦闘の末、興南撤収(1950年12月15~23日)作戦に後退した。朴会長はこの時、釜山にいた。「以後、米10軍団所属で中部戦線に行った時も学徒兵たちに会ったが、この内多数が戦死した」とし「どこか埋まっている戦友たちの遺体も必ず探してほしい」と声を詰まらせた。
22歳の朴会長は、故国から飛んできた悲報に迷いもなく37人の志願兵たちとともに戦場へ向かったが、その年の夏はとりわけ熱かった。
しかし、蒸すような暑さも志願兵の情熱には比べ物にならなかった。
米軍通訳兵として仁川上陸作戦や長津湖戦闘、興南撤収作戦などに参加、続く戦争に咸興と興南、釜山、慶州、安東、忠州、原州など戦場を掛け巡った。
「特に厳しい寒さで戦傷者より凍傷による負傷者が多かった長津湖戦闘の残酷さは今も苦痛として残っています。」
「長津湖戦闘で戦死した学徒兵戦死者83人の遺骨が一日も早く祖国に戻って来てほしい」と朴会長は願う。
そして毎年韓国中央会館で営まれる「長津湖戦闘戦死者慰霊祭」に参列、長津湖戦闘で戦死した同志たちの聖なる犠牲と護国精神を称える。
「もう生存する在日学徒義勇軍は残りわずかです。私たちが後世に望むことは一つです。在日学徒義勇軍は最後まで国のために本当に惜しみなく戦いました。それ一つだけ歴史が記憶してくれることを願います。自分が生きてきた道に悔いはありません」と明言する。
◇長津湖の戦い◇
50年11月26日から12月13日にかけて、北韓咸鏡南道蓋馬高原の長津湖地域で米軍第1海兵師団が10倍も多い12万人の中国人民志願軍に包囲されながらも、南下をくい止めるべく奮戦した大規模な戦闘。軍用艦を総動員して軍人10万人、民間人10万人を韓国に脱出させる興南撤収の成功につながった。
(2023.7.5民団新聞)
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