◆解放と分断
1945年8月15日、連合国側に対する日本の無条件降伏により太平洋戦争が終結した。日本支配下で独立運動を続けていた呂運亨を中心に「建国準備委員会」が結成されたが、米ソの対立が韓半島に持ち込まれた。
43年のカイロ宣言で「朝鮮は適当な時期に独立する」とされていたが、45年2月のヤルタ会談で米国はその「適当な時期」を20~30年間、その間は「信託統治」にすると表明した。45年12月の米英ソ3国外相会議で再調整され、「5年間の信託統治」とすることで合意された。
◆建国と同族戦争
「信託統治」決定にもとづく米ソ共同委員会の構成と決裂、大韓民国臨時政府主席だった金九らによる南北協商会議などがあったが、韓半島問題は国連に舞台を移した。
47年11月、全朝鮮での統一総選挙の実施決議がソ連の反対で霧散してしまうと、国連総会は48年2月、南だけの単独選挙を決議した。いわゆる「5・10単独選挙」に対する南朝鮮労働党などによる反対闘争は苛烈で、「済州島4・3事件」などが起きたが、同年8月15日に大韓民国政府が樹立。初代大統領に李承晩を選出した。9月9日には北韓政府も樹立した。米国などの資本主義陣営が支援する南と、ソ連を中心とした社会主義陣営が支援する北という2つの国家が韓半島に成立。東西冷戦の最前線となった。
北韓は50年6月25日、奇襲南侵を仕掛けた。韓半島を焦土に変え、死者150万人、負傷者350万人もの惨劇を引き起こした韓国戦争である。韓国は命脈を断たれる寸前まで追い込まれたが、起死回生となった仁川上陸作戦を手初めに国土を挽回した。祖国の危機に我が身を顧みず642人の在日学徒義勇軍が参戦した事実は特筆すべきだ。
◆革命と軍政
国の骨格を形成した李承晩政権だったが、腐敗・不正が指弾され、60年4月19日に学生・市民らによって打倒された。これは「4月革命」とも称され、憲法前文に「不義に抗拒した4・19民主理念を継承し」とあるように、韓国現代史の金字塔となった。

しかし、61年5月16日、腐敗・旧悪の一掃、国家自主経済再建を掲げた朴正煕率いる軍事クーデターが起き、軍政が始まった。
◆刻苦と躍進
62年からの4次にわたる経済開発5カ年計画を支えたのは国民のひたむきな努力だった。63年から77年までに8395人の鉱夫が、65年から76年までに1万371人の看護師が西ドイツに派遣され、韓国経済の成長資金となった。65年には、ベトナム戦争に2万人余りの戦闘兵力を派兵、軍人の賃金、建設・用役会社の輸出入などで延べ10億㌦を超す外貨を獲得した。
70年、京釜高速道路が着工からわずか2年半で開通。史上最大の土木工事をやり遂げた。74年8月、ソウル地下鉄1号線が開通。大衆車ポニーの開発で韓国は76年、アジアで2番目、世界で6番目のオリジナルモデルの自動車生産国になった。インフラ整備の奏功と重化学工業の振興や中東建設の拡大によって、韓国経済は70年代後半に活況を呈する。
輸出産業の育成やセマウル運動支援で在日同胞の果たした役割も実に大きい。13年にユネスコ世界記憶遺産に登録された「セマウル運動記録物」は在日の誇りでもある。

◆民主化と五輪
朴正煕大統領暗殺事件(79年12月)の合同捜査本部長に就任した全斗煥らによる粛軍クーデターが起きると、これに抗議する大規模なデモが頻発。80年5月18日には光州市で非常戒厳令拡大措置に反発して市民・学生が決起、一部は戒厳軍との武装闘争に発展した。
88ソウル五輪が近づくにつれ、大統領直選制改憲要求を中心とする民主化運動は一大国民運動となった。民正党代表委員・盧泰愚は87年6月29日、「大統領直選制への改憲と88年の平和的政権委譲」を約した特別宣言を発表、事態を収拾した。
ソウル五輪を契機に北方外交を展開した韓国は、東西融和と経済開発モデルとして豊かな北半球と貧しい南半球の角逐解消を導いただけでなく、自国の民主化ももたらした。
母国で初めて開かれた五輪の成功を願い、民団は全国の同胞から100憶円を超える募金を集め、成功へ一助となった。この後援活動を称え、五輪組織委員会は記念碑を建立した。
◆ITとW杯
韓国は90年代以降、半導体・移動通信機器・ディスプレーなどの分野で世界の主要生産国になった。半導体産業は短期間で先進国を追い越し、96年には世界初の符号分割多元接続(CDMA)方式の通信サービスを実現、世界の移動通信市場の強者として登場した。急成長したIT産業は、02年のFIFAワールドカップ韓日大会を成功と韓国代表の4強進出に大きな役割を果たした。


また、2010年代には世界的なSNSの普及に火を付けたのが韓国企業が開発したコミュニケーションアプリによって無料通話のほか瞬時に既読が確かなグループ会議など、通信業界に革命を起こした。
◆韓流と観光
90年代後半からアジアを中心に韓国ドラマやK‐POPの人気はすさまじく、ドラマ「冬のソナタ」や「宮廷女官チャングムの誓い」は、ファッションなど韓国の若者文化だけでなく、伝統的な家屋・料理・被服への関心を高め、観光客誘致に絶大な貢献をした。13年には韓国を訪れる観光客が1000万人台に乗った。
その後、韓国大衆文化は「Kブーム」と呼ばれ、芸能、食品、化粧品のほかスマートホン、家電、自動車など韓国製品全般の好感度を引き上げた。韓国語を習い始める外国人も急増した。韓国の貿易量は13年、1兆㌦を超えた。13年には、歌手「サイ(PSY)」の「江南スタイル」など、K‐POPがアジアのみならず南米、中東、ヨーロッパでも人気を博した。
日本では一時、韓流が下火になったが、「少女時代」「BIGBANG」をはじめ、「TWICE」「BTS(防弾少年団)」など、アーティストの世代交代で新たなK‐POPブームがわき起こっている。
◆外貨危機から再生
97年11月21日、外貨危機に陥った韓国はIMF(国際通貨基金)に支援を要請。同年12月4日、IMFは緊急資金支援を合意した。民団では1世帯につき10万円以上の外貨送金運動を開始、900億円を集めて金融危機克服に尽力した。
2000年6月13日、金大中大統領が平壌を訪れ、金正日国防委員長と史上初の南北首脳会談を開催、「6・15南北共同宣言」を発表した。金大統領は同年10月13日、韓国人として初めてノーベル平和賞を受賞した。98年10月8日には、日本の国会演説で在日韓国人の地方参政権早期実現を要望した。小渕首相と「韓日パートナーシップ宣言」を発表し、韓国での日本文化解禁の道を開いた。
◆核なき韓半島
17年5月10日、朴槿恵前大統領の弾劾、罷免という政局不安を克服し、第19代の文在寅大統領を選出した。疲弊した内外国民と分裂した国論を一日も早く収束し、韓国を立て直そうという国民意識の表れであり、韓国の民主主義の成熟度を世界に示した。
文大統領は18年4月27日、韓半島の緊張状態を緩和し、核のない韓半島を実現するために南北首脳会談を開催した。さらに、トランプ大統領と会談し北韓と米国の関係改善に向けて懸け橋の役割を果たした。
