韓日国交正常化50周年の今年、朝鮮通信使のユネスコ記憶遺産への登録準備が本格化しそうだ。その通信使と日本の文人たちの間で、「烙画」の交流が盛んだったことはあまり知られていない。昨年末に出版された田部隆幸著『柳宗悦も賛美した謎の焼絵発掘』(誠文堂新光社)は、美術史からも忘れ去られていた烙画の美しさを再照明した。往時の交流の奥深さにも感嘆させられる。
朝鮮王朝期に興隆
著者宅には、曽祖父の代から烙画が所蔵されていたが、入手経路は現在では不明である。そこで韓国文化院、日本民芸館などの協力を基に調査研究をまとめた。
烙画とは、金属製の鏝、火箸などを熱して焼鏝にし、紙、絹布地に絵画、文字を描く手法だ。竹片に描くのは烙竹だが、韓国では総称して一般には烙画、日本では焼絵と呼ばれている。
烙画の始まりは、朝鮮王朝第14代王・宣祖時代に、両班の女性のための料理書『飲食知味方』を著した、儒学者李存斎の母、張氏夫人とされている。
1800年代初期、第23代王・純祖の時代に朴昌珪が烙画を再興し、第24代王・憲宗に煙草の羅宇(煙管)が献上された。竹に龍がぐるぐると巻いた文様の烙画の煙管は煙を吸うたびに龍の鱗が縮まり、息を吐き出すと鱗が広がるように見え、国王自ら神業と称賛され愛用されたとある。それほど烙画は時代を超えた民族の宝であった。
韓国で著名な知識人である呉世昌、崔南善は著作で、超絶技巧の烙画を朝鮮王朝時代の「為我邦特技、精密で神に入る絵画」であると賛美している。また、民芸運動を提唱した柳宗悦らは1937年5月、全南の光州から潭陽を訪ね、かねて見たいと願っていた烙画を見て称賛、「感動し幾ら見ても見飽きることはない」などと機関誌「工藝」(1938年3月号)に発表している。
烙画再興の朴昌珪が交流した人物は金正喜、権敦仁などそうそうたる芸術家たちだ。白鶴起の烙画「柳図」にも七言絶句が記され、烙画図と詩文が見事に一致している。
烙画は、韓国では国立民俗博物館、温陽民族博物館、澗松美術館、朝鮮民画博物館、日本では国立博物館、日本民藝館、高麗美術館、アメリカでは、カウンテイー美術館、クリーブランド美術館など多くで所蔵されている。朝鮮王朝時代、政府は各国との文化交流に烙画を贈呈した。
本書表紙に用いた朴桂淡作「牡丹に蝶図」は、鏝の当て方により牡丹は今にも画面から溢れんばかりで、焼鏝の温度操作で濃淡が見事に描かれている。時代、人間、そして自然界の調和を見事に先祖の画人が描きだした誇れる烙画といえる。
通信使交流に彩りを添えて
江戸末期の画人伝「古画備考」には「焼絵は朝鮮にもありて、来朝人のえがけりという、紙本の山水見しことあり、其の技また拙からず」と書かれており、朝鮮王朝時代の烙画が日本の多くの人々に見られていたことがわかる。1811年、対馬の厳原で行なわれた朝鮮通信使の国書の交換では、公的行事の他に烙画の交流も行なわれた。
恋川白峨の焼絵「竹虎図」は、著者によると朴昌珪の孫朴秉洙が、日本人三山に烙画を伝授し、その長子が白峨との説もあるようだ。虎の描き方は朝鮮民画に類似しており朝鮮通信使など両国の文化交流の中での調査研究が待たれる。
現在、朝鮮通信使はユネスコの記憶遺産登録を目指す動きもあり、本書には慶州大学校文化財学科鄭炳模教授が「204年ぶりに再現される烙画の韓日交流」と「朝鮮烙画の歴史」を書き、元高麗美術館研究員の片山真理子氏も寄稿している。韓日の多くの学識者も参加しているので、両国の交流がさらに進むことも期待される。
図版が多くカラーで美術史を志す学生、絵画の好きな人、絵画研究のプロにも必読な一書だ。
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プロフィール
田部隆幸 1943年東京生まれ。自動車ばねの専門家。定年退職後、美術史の研究に専念。
(2015.2.4 民団新聞)