掲載日 : [2020-07-29] 照会数 : 7507
韓国戦争「真の英雄」白善燁将軍を埋葬…大田顕忠院
[ ありし日の白善燁将軍 ]
今月10日に満99歳で永眠した白善燁予備役大将の告別式と埋葬式が15日に執り行われた。生前「恐れたものは死ではなく敗戦」と話していた白将軍はこの日、遺族と韓米軍将軍、将兵と市民が見守る中、大田顕忠院で永遠の眠りについた。
午前にソウル峨山病院で営まれた告別式は鄭景斗国防部長官、朴漢基合同参謀議長、エイブラムス韓米連合司令官兼在韓米軍司令官、歴代参謀総長ら軍関係者と政界関係者が参列した。また、ソウルの光化門広場に設けられた市民焼香所などには2万5000人の市民が弔問に訪れた。
エイブラムス司令官は追悼辞で「白将軍は地上戦闘の最も絶望的で最も暗鬱な瞬間、国連軍戦力と肩を並べて韓国軍を率いた」と話した。
宋泳勤予備役中将は「故人の著書が米軍将兵の必読書として活用され、米軍が『真の英雄』と呼んでいる姿を見てきた」と述べた。
歴代の在韓米軍司令官も追悼メッセージを寄せた。ベル氏は「白将軍は米国独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンのような韓国軍の父」とし、ブルックス氏は「白将軍の韓米同盟に対する影響を測ることはできない」と語りかけた。
告別式には18人の政界関係者のみが参列した。「未来統合党」からは金鍾仁非常対策委員長、朱豪英院内代表、李鍾培政策委員会議長、金善東事務総長ら、与党「共に民主党」は国会国防委員長の閔洪喆議員、国防委員会幹事の黄熙議員らで、指導部は見られなかった。青瓦台からは金有根国家安保室第1次長が参列した。
40分間の告別式の後、国軍部隊旗に囲まれた霊柩車は大田顕忠院に出発した。告別式場の外では200人ほどの市民が太極旗と星条旗を振って故人を見送った。
大田顕忠院での埋葬式には告別式にも参列したエイブラムス司令官やハリス駐韓米国大使らが参列した。雨の中で行われた埋葬式には将兵・市民ら1000人ほどが集まった。
70年前の韓国戦争の最前線で着ていたものと同じ戦闘服姿の白将軍の棺には慶尚北道漆谷の多富洞、京畿道の坡平山など、彼が戦った激戦地8カ所の土がかぶせられた。
葬儀委員長の徐旭陸軍参謀総長は「目を閉じる瞬間までも白将軍は国と国民の発展を祈った。重い荷物は後輩に任せ、安らかに」と述べ、金判圭元陸軍参謀総長は「護国の大きな星になっていただければと思う」と言葉を送った。
この日の埋葬式には政府代表として朴三得国家報勲処長が参加した。青瓦台と与党関係者は参加しなかった。
全身を祖国に「生きた伝説」
北韓の奇襲侵略で危機に陥った大韓民国を全身を捧げて守った「生きた伝説」だった。韓国戦争勃発から停戦協定締結までの1128日間、一日も欠かさず戦線で激戦を繰り広げた。
数多くの生死のヤマ場を不屈の意志で克服し、国家と民族に献身した英雄と評価されている。
生前、つねに自身を「老兵」と呼んでほしいとし、「時代が与えた役割に最善を尽くしただけ。その時に戻っても同じ選択をする」が口癖だった。
白将軍は日帝植民地時代の1920年に平安南道江西郡で貧農の息子に生まれた。5歳年上の姉と3歳年下の弟と過ごした幼年期は苦難の連続だった。7歳の時、父親が亡くなると、母親は3人の子どもを連れて平壌に移り、苦しい生計を立てた。
教師になるために平壌師範学校に進学し、軍人の道を歩むことを決心して満州軍官学校に入学。
満州国の将校として服務していた時に祖国が解放されると、米軍が組織した国防警備隊の中尉に任官し、韓国軍の創設に貢献した。
その後、第1師団長(当時29歳)在任中に6・25韓国戦争が勃発すると、軍団長や陸軍参謀総長などを務め、最前線で軍を指揮し戦果を挙げた。
韓国戦争、最大の激戦と言われる多富洞戦闘で彼が成し遂げた勝利は伝説とされている。
彼は恐怖に怯えて退却する部下に向かって「私が退けばお前たちが私を撃て。お前らが退けば、私がお前らを撃つ」と励まし、先頭に立った。
彼と部下の決死抗戦で部隊は洛東江防御線を守り、その勢いで仁川上陸作戦後、平壌まで進撃する足場を築いた。
多富洞戦闘が行われた慶尚北道漆谷郡加山面多富里には、彼の功績碑が建てられている。この戦闘は、米国の主要軍事学校が彼の回顧録を授業教材に活用するほど認められている。
(2020.07.29 民団新聞)