掲載日 : [2008-07-16] 照会数 : 4250
統一問題への視点(7) 在日同胞の立場から
[ ソウルで行われた第5回離散家族の画像対面行事=07年3月27日。北は「わが民族」を唱えながら、家族再会にすら否定的だ ]
「わが民族同士」の理念(上)
帰属意識を損う…北韓代弁する6・15共同委
悪用される「民族主義」
「祖国統一は韓半島に生きる人々の安全と繁栄を、700万ともされる在外同胞の安寧を、さらには東アジアの恒久的平和と発展を、それぞれ担保するものとして、わが民族の絶対課題である」。本稿は連載第1回(4月2日付)の冒頭でそう指摘した。
統一がまぎれもない「わが民族の絶対課題」であることを再確認するためにも、ここでは「わが民族」という言葉がもつ意味、あるいはそこに紛れ込む企図について検分したい。
その自尊心から祖国・民族に対して格別な思いを抱き、ドライにはなり切れない在日同胞は、とくに注意深くあるべきだろう。
私たちはいま、「わが民族」がもってしかるべき本来の帰属意識を傷つけ、統一への主たるエネルギーとなる健全な民族主義の育成を阻む深刻な現実を目にしている。
「高麗連邦」のミニチュア版
2000年の6・15南北共同宣言に「『わが民族同士』の理念」なる言葉を盛り込んで以来、北韓はこれを最大限に活用してきた。つまり、「わが民族同士」の名において、南から援助を引き出すだけ引き出しながら、批判や要求を一切受け付けない自らの立場を合理化するだけでなく、「わが民族」の名において南における親北勢力の増殖と統一戦線の拡大を図り、韓国の統治権力を空洞化させようとする手法がそれである。
金剛山で6月15日から開催された「6・15共同宣言発表8周年記念民族統一大会」に、その典型を見ることができる。韓国・北韓・海外の「民間代表」で構成される「6・15共同宣言実践民族共同委員会」が主催したもので、その本大会とされる「6・15共同宣言と10・4宣言履行のための民族大会」が採択した共同決議文を見よう。
決議文はまず、最近の情勢について「自主統一へと向かう同胞の前途には大きな障害」や「大勢の流れに逆行する不信と反目、対決の障壁」が立ちはだかり、「反6・15の逆風」が吹いているとの認識を示し、名指しはしないが事実上、李明博政府を非難したうえでこう主張する。
「わが民族に対する外部勢力の挑戦と干渉を克服し、民族の尊厳と利益、自主権を守護するために全民族的な運動を力強く展開していく」。「6・15民族共同委員会に対する全民族的な支持と関心を高めるための多様な統一愛国運動を積極的に繰り広げ、各階層の大衆の中でともに呼吸・活動し、全同胞を6・15共同宣言と10・4宣言の実践へと積極的に導いていく」。
この「6・15民族共同委員会」は北韓の主導で結成された。北側代表、南側代表(親北あるいは北に付き従うのみの従北市民団体が主要)、海外代表(従北団体など)からなるもので、北韓の主張する高麗連邦制の「南北双方同数の代表と適当数の海外同胞」で構成される「最高民族連邦会議」をなぞるミニチュア版と言えるだろう。
民族共同委の主張は明らかに、自身の都合によっては南北政府間の交渉を平然と拒否しながら、韓国の統治権力をスルーして直に韓国の国民を扇動・掌握し、体制を揺さぶろうとする北韓を代弁するものだ。
民族共同委は、北韓が追求してきた統一戦線機構そのものといっても過言ではない。
「わが民族同士」をキーワードとするこうした動きは、北韓への不信を募らせるだけでなく、反作用として韓国内に「わが民族」への、さらには民族主義への懐疑的な空気を醸成させ、対抗概念を強化・拡散させてきた。
建国60周年となる大韓民国の総括的な再評価ともあいまって、わが民族が初めて樹立した国民国家・韓国の正当性を強調するのは当然としても、「国家主義」的な性向を全面に押し出すあまり、統一を「わが民族の絶対課題」から後退させかねない傾向すら見てとれる。
一部に、南北交流・協力の制度化は韓国の存立・発展を脅かすものであり、南北関係を1972年の7・4南北共同声明以前に戻すべきだとの極論さえ登場させた。
民族的情熱に寄生する企み
そもそも「民族」とは何か。緒論あるなかで、概念づけの一つとして比較的に知られているのは、スターリンの小論文にある「民族とは言語、領土、経済生活および文化の共通性にあらわれた心理的性質の、歴史的に進化した、安定した共同体である」との「定義」であろう。それはともかく、私たちはふつう「民族」を歴史的自然的に発生した文化的共通性を持つ人間集団とイメージしてきた。
「民族」はしかし、「共同体」を「民族国家」という機能体に変化させて、少なからず他民族支配へと向かわせ、帝国主義国家を誕生させた。また、旧ユーゴスラビア諸国・諸民族が見せたように、異質なエスニック集団を迫害・殺戮する民族浄化を幾度も引き起こしてきた。
近代以降の人類が形成してきた「民族」という特殊な観念とそれに基づく民族主義は、多くの罪過をもたらす淵源として呪詛の対象でもある。「民族とは民族主義者がでっちあげたもの」ともされる所以だ。
しかしそれでも、私たちは「民族」の持つインパクトを無視してはならないし、無視することもできない。ロンドン大学教授アンソニー・D・スミスは自著『ナショナル・アイデンティティ』でこう指摘する。
「今日、民族的なアイデンティティは、集団との一体化の主要な形態をなしている。(中略)民族と民族主義が人心を引きつける力はグローバルである。種族対立ゆえの抗議や民族主義者の反乱に縁のない地域は一つもない。賞讃されようが悪しざまに言われようが、民族が超越されそうな兆しは一向になく、民族主義がその民衆に訴える爆発的な力と意義を部分的にでも失いつつあるようにはみえない」
植民地支配と米ソ両超大国の対立に起因する分断の重荷を抱えたわが民族にとって、統一・独立・発展を希求する「民族主義がその民衆に訴える爆発的な力」を失うわけにはいかない。
だからこそ、それに巣食い、寄生し、自己の利益に奉仕させるべく「わが民族」の看板を悪用しようとするエセ民族主義を許すことはできないのである。
(2008.7.16 民団新聞)