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苛烈な情報戦地帯へなぜ
肉親を救う一途さか
「スパイ行為」の疑いで、日本人数人が中国当局に逮捕されていたことが最近、相次いで明らかになった。このうち、北韓との国境地帯で案内役とされる中国朝鮮族の男性と一緒に拘束された神奈川県在住の50代男性(以下、Kさん)は、元在日同胞の脱北者であることが確認されている。
Kさんのケースは波紋が広がろう。まず、浙江省で拘束された愛知県の男性と同じく、公安調査庁との関連が取り沙汰され、日中間の抜きにくいトゲになる可能性がある。さらには、国内に3万人近い脱北者や50万人とも言われる朝鮮族をかかえる韓国だけでなく、約200人の脱北者、6万人ともされる朝鮮族が滞在する日本にも、類似事件の発生への対応など新たな問題が提起されよう。
度々の訪中を周囲は不安視
在日同胞社会も無関心ではすまない。2003年から「脱北者支援センター」を運営し、Kさんと同じ元在日同胞脱北者の日本定着をサポートしてきた民団としても、今後の成り行きを注視する必要がある。
Kさんは幼いころ、在日同胞の父と日本人の母とともに、1959年12月から始まった朝鮮総連による「帰国」事業で北送船に乗った。同じく「帰国」者を親にもつ女性と結婚、軍では宣伝部門の幹部だったという。90年代末に家族ともども脱北、東南アジアルートを経て日本に入国したのが2000年代初頭だ。しばらくして日本国籍を取得した。
Kさんは比較的早く日本社会に適応するなど、社交的で活動的なタイプとされる半面で、多くの脱北者と同じように北韓に残った肉親への気遣いは強く、送金を懸命に続けるなど一途な印象も強かったという。
ただ、ここ数年は訪中を繰り返しており、その目的や資金の出所について周囲は心配を募らせてもいた。
朝鮮族集住地北情報の宝庫
Kさんが拘束されたのは、朝鮮族が集住する東北3省の一つ遼寧省の北韓と国境を接する丹東市だ。鴨緑江河口に位置する中国最大の国境都市で人口は250万。北韓の新義州市と道路・鉄道で連結され、両国間物流の8割近くを担う重要交易拠点でもある。
東北3省の中央部に位置する吉林省と西部の遼寧省とで北韓との国境すべてをかかえ、北部の黒竜江省はロシアと接している。2000年の第5次人口調査によれば、朝鮮族の総数は中国全土で約192万人、10年の第6次調査では約183万人に減った。北京、上海など大都市や海外への出稼ぎ、移住が増えているからで、この流れは現在もとまっていない。
それでも、3省が集住地域であることに変わりはない。吉林省の延辺朝鮮族自治州を中心に、150万人近くが居住しているとされる。自治州の人口は昨年末で227万人、そのうち朝鮮族は35・12%の79万9000人との調査があった。
この東北3省は、韓国との関係が深まりを見せているとはいえ、北韓とも交易や観光・文化・スポーツなどを通じた人的交流がきわめて活発で、いわば北韓情報の宝庫だ。中国、韓国、北韓の情報当局がせめぎ合い、北韓の民主化や脱北者支援に取り組む韓国など各国の市民団体や宗教団体が入り組んで活動している。
昨年3月、韓国の検察当局はソウル市公務員出身のスパイ容疑者を検挙した際、韓国の国家情報院の外部協力者が中国の情報当局ともつながる「二重スパイ」の可能性が高いとして捜査したことがある。東北3省で活動する情報協力者のなかには、二重スパイ、三重スパイが少なくないというのが常識だ。
公安調査庁の関係も焦点に
Kさんがこの地域で活動する危険性を自覚していなかったはずはない。中国に対する「スパイ行為」ではなくとも、不審者としてマークされれば「スパイ容疑」で拘束・起訴される可能性を知らなかったはずもない。
こうしたリスクを冒しても果たすべき目的があったのであろう。北韓に残した肉親を脱北させるルートづくりだったのかも知れない。公安調査庁と関係があったとしても、資金を工面する必要にかられてのことだったに違いない。いずれにせよ、脱北者の窮状を映してあまりある。
菅義偉官房長官は、日本当局が中国にスパイを送り込んだ事実はあるかとの問いに、「そうしたことは絶対にしていない」と言い切った。しかし、真実はどうあれ、Kさんが公安調査庁との関係を供述していれば、日中関係は険しさを増すことになる。
韓国の主体思想派の創始者で、後に北韓民主化運動の指導者に転じた金永煥氏が12年3月、脱北者救出活動のために滞在していた遼寧省・大連で中国当局に逮捕された事件が想い起こされる。適用されたのは、国家への反逆やスパイ行為を処罰する国家安全危害罪だった。
韓国政府の釈放要求に沈黙してきた中国は、金氏逮捕から114日後、強制退去させることで幕引きをはかった。韓国が国連に提訴する動きを見せたこともあり、外交摩擦を恐れたとされる。
金氏とKさんの事例には類似性もある。しかも、Kさんには北送・脱北という苛酷な人生があった。北韓ではもう冬を越える準備の季節だ。脱北者のもとにも北に残る家族から切実な便りが届きはじめる。日本政府には人道的な見地から、国際的な協力のもとで最善の努力を尽くすよう望まずにはいられない。
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対北刺激 徹底封鎖も
東北振興へ環境整備急ぐ
「スパイ行為」が北韓に対するものに限定されていたとしても、中国としては放置できない事情がある。東北3省の開発・発展の成否が北韓との関係に大きくかかっているからだ。
平壌で10日に開催された朝鮮労働党創建70周年を記念する軍事パレードの観覧席に、金正恩第1書記と並ぶ中国共産党の序列5位、劉雲山・政治局常務委員の姿があった。
劉委員は金正恩体制になって以降、訪北が公表された初の最高位級要人である。北韓による長距離弾道ミサイルの発射や核実験の動きに対する牽制だけでなく、冷え切った関係の改善を探る一環であろう。
成長の鈍化で東北に打撃大
中国経済の成長鈍化で、東北3省はもっとも大きな打撃をこうむった。3省には南側が閉鎖性の強い北韓、北側がロシア、モンゴルの落後地域と接する地理的弱点もある。12年に関係が悪化して以来、日本からの投資は減り、低成長に悩む韓国からのそれも減退傾向にある。
習近平国家主席は7月、党総書記として主宰した政治局会議で「第13次経済開発5カ年計画」(16年〜20年)の基本方針を策定するに先立って、延辺朝鮮族自治州を訪れ、「次期5カ年計画にあたって、あらゆる支援を惜しまない」と3省の指導者たちに明言した。
国家主席としては20年ぶりとなる延辺訪問と合わせ、異例の対応と言っていい。習主席は「一帯一路」(陸上・海上・シルクロード)構想と3省を連携させ、東北振興のテコにする考えだ。
高速鉄道網の急速な拡大も
高速鉄道が瀋陽‐丹東間に続いて吉林‐琿春間、丹東‐大連間で相次ぎ開通する予定で、東北3省の主要都市が連結される。さらには琿春‐ウラジオストク間でも建設中だ。琿春‐ザルビノ(ロシア)‐釜山のトライアングル陸海連結輸送網もすでに稼働している。
中国政府は、吉林省の長春・吉林・図們を連結する大規模な豆満江流域開発プロジェクトを推進し、20年までに先端技術産業と東北アジア物流の拠点に育成する方針だ。近く発効する韓中FTA(自由貿易協定)を機に韓国への橋頭堡とし、ロシア、さらには日本との交易を拡大して物流主導権を握り、太平洋にも進出したいとしている。
東海(日本海)に海岸線をもたない中国がこうした計画を推進するには、北韓の港湾を利用するほかない。中国は、北韓北端の羅先(羅津・先鋒)経済特区にある埠頭の長期使用権を08年から確保していると公表してきた。
しかし、北韓は13年12月の張成沢処刑に際した判決文で、「羅先の土地の安価売却」を罪状の一つにあげて以降、その事実はないと否定に転じた。中国としては北韓の協力を取りつけ、何としても軟着陸をはかりたいところだ。
改革か崩壊か両にらみ対応
難関はあっても、東北3省は中国経済の新たな躍進センターになろう。丹東市に今月中にも、国境地域の双方住民が一定額以下の商品に限り特恵税制のもとで取引できる住民互市貿易区が開設される。3省のこうした試みの恩恵は北韓にも着実に届く。中国としてはこれを北韓の改革・開放への促進剤にしたいはずだ。その「代償」として、脱北者の増加抑止に北韓とより緊密な協力関係を築こうとするだろう。
東北3省の国境地帯は、北韓の急変時に先陣を切って出動する集団軍の集結地でもある。改革・開放か、崩壊か、国境地帯は北韓の成りゆきに両にらみで対応する要衝であり、敏感さが要求される地域であることを失念してはなるまい。
(2015.10.14 民団新聞)