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酷評はね返す観客数
無名の英雄たちに脚光 韓国に「ククポン」という造語がある。「国(クク)」と覚醒剤のヒロポンの「ポン」を合成したものだ。愛国的な意識を啓発・浸透させようとする試みを指して言うらしい。しかし実態は、建国前後から韓国を否定的にとらえない歴史観に向けられるといって過言ではない。それにしても、自らの国や歴史を尊重しようとする思いを麻薬になぞらえるとは驚きである。
映画は訴求力が強いだけに、そのレッテル貼りの対象になってきた。最近では、ドイツ(旧西独)に派遣された炭鉱夫と看護師の夫婦を中心に、韓国を最貧国から救い上げた産業化世代にスポットをあてた『国際市場』(日本では『国際市場で会いましょう』)、2002年6月に起きた第2次延坪海戦の実話に基づく『延坪海戦』、壬辰倭乱における李舜臣将軍の活躍を描いた『鳴梁』などがククポン指定された。
1950年に勃発した6・25韓国戦争など北韓を刺激する事実を素材にした映画がとくに「ククポン」扱いされやすい。人気俳優のイ・ジョンジェやイ・ボムスに加え、マッカーサー役にハリウッド俳優のリーアム・ニーソンをキャスティングしたほか、純製作費が約14億円と高額だったことなどから注目を集めた『仁川上陸作戦』(7月27日封切り)もやはり例にもれることはなかった。
試写会後の反応は厳しく、著名な映画評論家たちから「反共主義を民族主義に置き換える『小細工』がうかがえる」「現時点ではマッカーサーに対する多様な解釈が可能であるにもかかわらず、彼を苦悩する思想家として尊敬されるべき対象とだけ描いた演出は問題」といった酷評が相次いだ。中央日報(7月22日付日本語電子版)もこう論評している。
「重要なのは韓国戦争を見つめる視点だ。韓国側を人間的に描写する半面、北韓側は無慈悲な人物として描かれている。マッカーサー将軍に対する過度な英雄化も釈然としない。善悪二分法では判断できない人間の複合性や韓国戦争を見つめる立体的な見解を見出すことはできない。民族の悲劇を再現したこの映画が21世紀に呼び覚まそうとしているものは一体何か。古い反共主義や単純な愛国主義を刺激すること以上に何があるのかは疑問だ」
まるで、北韓にシンパシーを抱く親北左派のような物言いである。北韓軍のそれこそ無慈悲な全面南侵によって引き起こされた韓国戦争を、「どっちもどっち」あるいは「戦争に善悪はない」かのように描けと言っているのに等しい。保守系とされる中央日報の論評さえ、この映画をククポン扱いする空気に汚染されたのだろうか。
だが、封切りから1カ月で観客数は700万人に迫っている。興行実績はヒット作に数えられる『国際市場』、『弁護人』より早いペースという。仁川上陸作戦という誰もが知る歴史事実でありながら、埋もれていた実話を新しい切り口にしたことで、重量感ある感動を伝えられたのではないかと評されている。
起死回生の大胆作戦 仁川上陸作戦が敢行されたのは、韓国戦争の勃発から80余日が経過した9月15日のことだ。この成功がなければ、今日の韓国はなかった可能性が高いと言われるほど起死回生の作戦だった。
国連軍は260余隻の艦艇と7万余の兵力で仁川に上陸し、洛東江にまで進撃していた北韓軍の背後にくさびを打ち、兵站ラインを遮断した。国連軍はソウルを奪還し、後退する北韓軍を追撃して鴨緑江にまで北上した。だが、中国軍が参戦して国連軍は後退、一進一退の膠着状態を経て休戦に至る。
「作戦の成功確率は5000分の1だった」とマッカーサー将軍は述懐している。仁川近海は干満の差が大きく、満潮時間は2時間しかないうえ航路は入り組んでいて狭い。大規模な艦隊・兵員を投入するのは困難なため、米軍内でも当初は将軍を支持する参謀はいなかった。
韓国の戦史研究者の間では毛沢東が金日成に、ソウル防御のために仁川に堅固な陣地を築くよう忠告していたことが知られている。だが、北韓軍は洛東江に兵力を集中するあまり仁川守備を手薄にしていた。洛東江戦線を基点に陸上から反攻する場合、米軍10万人の犠牲を担保しなければならないとの試算もあった。この二つの要因が反対派を納得させたという。
仁川上陸作戦は第2次世界大戦時のノルマンディ上陸作戦と並び称される。しかし、ノルマンディは連合軍8975人の戦死者を出したのに対し、仁川でのそれは韓国軍と国連軍を合わせて13人だった。費用対効果という面でも際立った作戦だったと言われている。
映画『仁川上陸作戦』の主軸となったのは、この無謀とも言われた上陸作戦の成功の裏にあった実際の諜報作戦X‐RAY(エクスレイ)だ。
咸明洙元海軍参謀総長(韓国戦争当時の海軍情報局長)の回顧録『海へ、世界へ』によれば、韓国海軍は50年8月13日、マッカーサー連合軍司令官の要請を受けて、17人からなる諜報部隊を構成。仁川に浸透して北韓軍の海岸砲台などの位置と数、兵力配置の状況、上陸地点の地形などの情報を収集し、司令部に報告した。
しかし、上陸作戦前日、彼らの拠点・霊興島が北韓の一個大隊に襲われ、上陸作戦が水泡に帰しかけた。この危機に、林炳来中尉と洪時旭下士が北韓軍を一手に引きつけて部隊員を脱出させ、自らは銃で自決する。捕虜になれば拷問を受け、上陸作戦の情報を自白させられかねないからだ。
映画ではもう一つ、米極東軍司令部駐韓連絡処に所属した対北韓諜報部隊にも焦点をあてた。この部隊も韓国人兵士で構成され、上陸作戦の前日に京畿道・八尾島を奪還し灯台を確保して連合軍艦艇の誘導に成功した。
51年の江原道の華川発電所奪還作戦では、中国軍の火力規模を正確に報告するなど各戦闘で決定的な役割を果たした。52年には航空機で敵陣後方に部隊員を送り込み、中佐級のソ連軍事顧問と北韓軍の連隊長級2人の拉致にも成功している。
映画は冒頭部分で、これも実在した「少年志願兵」を登場させた。マッカーサー将軍が「他の部隊はみな後退したのに、君はいつまでここを守るつもりか」と問う。少年兵は「上官の命令なしには絶対後退しないのが軍人です。撤収命令が下るまで、死んでもここで死に、生きてもここで生きるつもりです」と応える。
将軍は50年6月29日、北韓軍との熾烈な戦闘が続く最後の漢江防衛線であるソウル永登浦の陣地を視察した。この対話はその場で二人が実際に交わしたものだ。将軍は通訳の韓国軍将校を通じて、「少年に、堂々とした立派な軍人だと伝えてくれ。日本に帰ってすぐ支援軍を送る」と約束する。少年兵は20歳だったが、将軍には幼く映ったのだろう。これらは陸軍参謀総長などを歴任した丁一権元国務総理の回顧録が伝えている。
韓国政府は54年、X‐RAY作戦で犠牲になった二人を称えて乙支武功勲章を追叙し、海軍は2013年に就役した2隻の高速ミサイル艇に二人の名前をつけた。だが、この二つの部隊は存在そのものがほとんど知られていない。映画は無名のまま人生を終えた勇敢な兵士たちの活躍と犠牲に対するオマージュでもあるのだ。
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根を張る〞歪曲史観〟
親北勢力、各界にうごめく 今から11年前の上陸作戦55周年を前後して、仁川にあるマッカーサー将軍の銅像を撤去しようとする運動が激しく展開されたことがある。これを阻止しようとする警官隊に向かって鉄パイプなどの凶器を振り回す活動家たちの姿は実におぞましいものだった。
しかし、その暴力よりはるかにおぞましかったのは、銅像撤去を叫ぶ彼らの理屈だ。
なにしろ、「マッカーサーが韓国戦争に介入していなかったなら、戦争は1カ月以内に終わり、分断されることもなかった」とまで言い切っていた。彼らにとって韓国は、北韓に支配されてしかるべき存在以外の何物でもないということになる。
韓国では80年代に新左翼世代が台頭し、やがて二派に分裂していく。一つは「民衆・民主」を意味する《PD派》、もう一つは「民族・解放」の《NL派》だ。《PD派》は正統マルクス・レーニン主義に近いとされ、北韓とは一貫して距離を置いた。
《NL派》は、韓国を「米国の植民地」であると規定し、主要矛盾は韓国民衆と米国を中心とする帝国主義およびその隷属勢力の対立にあるとした。北韓の路線そのものだ。
80年代後半に入ると《NL派》が《PD派》を勢力で圧倒し、その《NL派》を北韓の主体思想をあがめる《主思派》が牛耳るようになる。
彼らは運動圏から学界、政界をはじめ教育・労働・言論・宗教・法曹・文化芸術の各分野に進出し、ヘゲモニーを掌握するまでに根を張った。韓国の建国前後史や現状を徹底的に卑しめ、保守・右派勢力に対する包囲網を築くことに今も総力をあげている。
彼らは先進世界国家に仲間入りした韓国を、米国と旧親日派の分断勢力が建てた「悪の国」であるとし、世界最貧の破たん国家である北韓を、抗日独立運動を継承する統一勢力が樹立した「善の国」と規定する。
韓国社会がこうした歪んだ意識構造に絡めとられて久しい。銅像撤去騒動と『仁川上陸作戦』を「ククポン」に貶めようとする言説は同一線上にある。 Интим салоны Саратова приглашают всех мужчин и женщин для откровенного общения. Вас рады встретить и насладить проститутки Саратова.
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在日同胞も戦った
義勇学徒642人「国あってこそ」の一心 韓国戦争当時、在日同胞社会にも戦線なき戦いがあった。55年5月に総連を結成する旧朝連(在日朝鮮人連盟)勢力は、50年7月に祖国防衛隊を組織し、8月には民戦(朝鮮統一民主主義戦線)を結成、国連軍の後方をかく乱する武装闘争・破壊活動を日本各地で展開した。
戦争勃発後直ちに学徒義勇軍を組織した民団は、総力を動員して民戦に対抗する一方、義勇軍を祖国戦線に派遣した。義勇軍は仁川上陸作戦に加わったのを始発にソウル奪還作戦、元山および利原上陸作戦、甲山・恵山鎮奪還作戦、白馬高地や長津湖など名高い激戦地で数々の軍功を挙げた。
642人が参戦して135人が戦死し、家族や生活基盤が残る日本への帰還の道が閉ざされた義勇兵は265人を数えた。毎年9月、仁川の寿鳳公園にある在日学徒義勇軍参戦記念塔前で開催される参戦記念式では、その壮挙を称え、今は亡き戦友を追慕し、護国・平和の誓いを新たにしている。
それだけに、仁川上陸作戦の意義が否定され、それをモチーフにした映画が「ククポン」扱いされることは在日同胞としての立場からも許せるものではない。
戦争勃発時の韓国は建国から2年に満たず、国家体制ははるかに先行した北韓に比してあまりに未熟であり、在日同胞に恩恵をもたらす施策など期待することさえはばかられる水準だった。しかも、光復から建国への過程で内乱をともなう苛烈な左右激突が続き、保守内部も単独政府樹立やむなしとする勢力と南北協商派に分裂するなど四分五裂の状態にあった。
それでも、民団を中心とする在日同胞たちは、自由・民主主義と市場経済を基本理念とする韓国に希望を見た。言い換えれば、在日同胞は亡国の民、寄る辺なき民であった悲哀と完全に別れを告げ、自己実現のためにも堂々たる一国の国民として生きたいという思いを韓国に託したのである。 だからこそ、徴兵の義務があったわけでも、召集されたわけでもない青年学徒が救国の一念で戦場にはせ参じたのだ。その思いは今も引き継がれている。
韓国の人々は北韓の電撃的な全面奇襲南侵から国を守った。それを通じて初めて、韓国の国民となり、一体感を得たと言われる。左と右、南と北の相克にともなうカオスに埋もれていたアイデンティティを自らつかみ取ったのだ。
6・25韓国戦争から導き出される教訓は、いかなる大義があろうと民族の安全を犠牲にする賭博的な手段は排除されねばならないということだ。その教訓を肌身に染み込ませた韓国が経済建設にまい進したのに対し、北韓は「統一事業」の美名で賭博的な手法に執着してきた。その挙げ句が核兵器とミサイル開発に狂奔する人権蹂躙、経済破綻国家の姿である。
韓半島に存在する軍事火力は66年前より格段に強力だ。韓国が守るべき資産の質量も当時の比ではない。南侵されてから押し返すのではなく、戦火を未然に防がねばならない。国民が今一度ひとつになってこそそれは可能だ。韓国を守った諜報部隊員、少年志願兵、在日義勇軍など無名の存在は飽くことなく顕彰されるべきだろう。
民団を中心とする在日同胞たちには、韓半島に先進的な平和統一国家を建設する主体は韓国をおいてほかになく、韓国にはそれを担保する意志と力量を養う責務があるのであり、その責務を全うする源泉は健全な歴史観によってこそ確保できるとの確信がある。祖国に一途の貢献をいとわなかった在日同胞の歴史を韓国の歴史教科書に記載することを含め、健全な歴史観の拡充に積極的にかかわっていくべきだ。
(2016.9.7 民団新聞)