掲載日 : [2016-05-25] 照会数 : 7240
「明るさまだ見えない」…熊本地震発生から40日、同胞たちの今
[ 民団熊本で見舞金と支援物資を受け取る留学生たち ]
余震に脅え不眠続く
罹災証明書待ち望む
熊本地震発生から40日が過ぎた。避難所や車などに寝泊まりする同胞はもういないが、多くは今も「余震が怖くて夜なかなか眠れない」と語る。
民団熊本県本部(金泰 団長)では、熊本市内から遠く離れた団員宅や日本籍取得同胞、新規定住者や留学生など、訪問対象を約500世帯に広げ、これまで180世帯に一律3万円の見舞金を手渡した。
団員の生活はどうなっているのか。
金裕己さん(54歳、熊本市中央区)は洋服店を営んでいる。87歳になる高齢のアボジ、金龍浩さんの身辺も特に問題を感じることはない。だが、取引先の問屋の建物に「要注意」を意味する黄色い紙が貼られた。「次に大きな地震が来たらもたない」という状態だ。
金泰植さん(80歳、同中央区)の家は傾いている。水道管が壊れ、水道メーターの横に蛇口をつくり、そこにゴムホースを付けて水を引く。トイレはバケツに溜めた水で流す。「雨漏りがひどく、今のままでは老夫婦と息子3人家族で住めない。引っ越すマンションを探しているが、家財道具の処分もなかなか難しく、持って行かざるを得ない」。
4月に罹災証明書発給を求めたが、半壊以上でないという理由からか、今月20日になってやっと市から被害認定調査にやってきた。その結果、黄色い紙が貼られた。くっつくように建つ隣家は赤い紙だった。市の最終診断結果が出るのにもう1カ月待たなくてはならない。
金さんは不整脈発生時に心臓に電気ショックを送るICD機器を胸に、脊髄に金具を植え込むなど身体にハンディを抱える。車の運転はおろか、長く歩くこともままならない。「食べてはいけるが、生活の助けになる罹災証明書がなければ厳しい状態だ」と訴える。
熊本市中央区で韓式屋台「とらじ」を経営している徐海錫さん(67)は、地震直後は公園内で民団が提供した車の中で寝泊まりしていたが、今では家で宿泊できるようになった。店を再開したのは16日から。新定住者の韓国人夫婦が安否伺いを兼ねて来てくれた。「余震の不安はあるが、何よりもお客さんが来てくれるようになったら嬉しい」と語る。
金達龍さん(92歳、北区)は市営住宅に一人暮らしだ。5年前までトラックに乗り、キムチを売っていたが、胸部圧迫骨折で胸にコルセットをはめ、歩行器がないと歩けなくなった。片道20分の病院に少なくとも週1回のペースで通う。精神安定剤を飲んで寝るが、余震の不安で深い眠りにはつけない。
日常生活には困っていないと言いながらも、「民団本部からの見舞金と飲料水、在日韓人歴史資料館からの電話、それに福岡の団長と総領事らがわざわざ訪ねて来てくれたのには、本当に涙がでた」と何度も感謝の言葉を繰り返した。
韓相姫さん(50歳、東区)は留学で来日し、熊本に定着した。韓国と日本をつなぐ熊本県庁国際課に25年以上勤務している。地震直後は自宅隣りの小学校に1日避難した。その後、荒尾市に住む従兄弟の家に1週間世話になったが、通勤に3時間以上かかるため、やむなく戻って来た。リビングの壁クロスが破れた程度で、メーカーに問い合わせても問題はないと言われた。「ライフラインもしっかりしているので、大丈夫。ただ、余震が心配」と話す。
民団熊本本部には12日、九州幸銀の溝江雅夫理事長から100万円の義捐金が寄せられた。
(2016.5.25 民団新聞)