最近、書店に立ち寄ることが少なくなった。嫌韓本があふれるグロテスクな図を見たくないからだ。不振にあえぐ出版業界の内情は理解しつつも、韓国や中国を叩けば売れる、今のうちに荒稼ぎをしようという魂胆は度を越えている。
文化の象徴だった書店街も、他民族排斥を叫ぶ拠点になりさがったようだ。いつまで「マスゴミ」と呼ばれる一部の報道と一蓮托生の劣化を続けるのだろうか。背景の一つには、近隣諸国との外交が軌道に乗らない政治状況があるのだろう。「JAPANESE ONLY」という横断幕をサッカー競技場に掲げて、物議をかもしたことも、閉塞感の裏返しである。
しかし今、排外的な空気に思考が停止され、全体主義的な傾向に踊らされていないか、考えてみるべきだ。「国技」とされる大相撲の3人の横綱はモンゴル出身者である。芸能界も日本人だけでは成り立たないくらい在日外国人が一線で活躍している。
そういう時代に嫌韓本やヘイトスピーチというレイシズムがまかり通るのは、民主主義社会として健全とは言えない。「恥の文化」と言われたこの国の美徳は、一体どこに行ったのか。
国際社会で名誉ある地位を占めたいと憲法前文でも謳っているのであれば、平和のうちに共存する協調主義に徹するべきだろう。
声高の指導層の振る舞いを見るたびに、「強くなくては生きていけない」が、「優しくなくては生きる資格がない」という探偵小説のセリフが浮かぶ。彼らが襟を正せば、もともと善良な国民は、他者への「おもてなし」がもっとできるはずである。
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(2015.3.18 民団新聞)