河回村から安東市内に戻った後、バスを乗り換え鳳停寺まで足を延ばした。市の中心部から北に30分、天燈山の懐に抱かれるように建つひっそりとした山寺である。
もとは新羅時代の672年、義湘大師の弟子、能仁大徳が創建した。折り紙の鳳を空に飛ばし、降りた所に寺を建てたので、この名がついたと伝えられる。
小さな山寺が有名になったのは、1999年、英国のエリザベス女王がこの寺を訪問し、「美しい寺」と讃えたからだ。女王は芳名帳に記帳する際にも、「静かな山寺、鳳停寺にて韓国の春を迎える」と綴っている。ちょっと俳句的な詩味を感じさせる文章で、女王もここで幽遠の情趣を感じたに違いない。
山の緑に囲まれた寺は実に閑静だ。静謐さが寺を包み、一帯に清浄の気が満ちている。現存する韓国最古の木造建築という極楽殿をはじめ、大雄殿、華厳講堂など、境内にはいくつもの建物がたつ。三層石塔もある。だが配置の妙によるのか、実際の大きさよりもこじんまりと感じる。空間に無駄がない。それでいて窮屈な感じがしない。すべてに調和がとれてひどく心地よい。
木魚の響きとともに極楽殿から読経の声が流れてきた。僧侶がひとり、勤行を始めたのだった。ひとりだけの声なのに、よく響く。寺も山の緑も私自身も、みな読経の声に染まってしまいそうだ。
鳳停寺はある作家の記憶を秘めた場所でもある。立原正秋(1926〜1980)。60年代から70年代、たいへんな人気作家であった。能や陶磁器など美の意匠をこらし、恋愛小説に独自の境地を見せた。本名を金胤奎といい、鳳停寺の麓で幼い日々を過ごした。父は寺の仕事をしていたという(僧であったかどうかは不明)。
両親ともに韓国人だが、立原は自筆年譜などでは、父母はともに日韓のハーフで、父方は李朝貴族の末裔だったとしている。出自をカムフラージュしたのはやむなき事情もあったのだろうが、幼い頃、父に連れられてよく鳳停寺を訪ねたのは確からしい。
5歳の冬にその父が死んだ。「風も凍る」ような日だったと、自伝小説『冬のかたみに』で語っている。身を切られるような喪失感だったのだろう。その後安東や亀尾で学び、11歳で日本に渡った。作家になって以降は、一度も故郷に帰らなかった。1973年に韓国を訪問したが、鳳停寺は避けている。立原にとって故郷は遠ざけるべき禁域だったのだろうか。
1980年、立原はガンで壮絶な死をとげる。まだ54歳だった。
亡くなる前、しきりと父のことを知りたがり、幼い日々のことを口にしたという。離れたいと願う一方で、故郷への思いが胸中にこだましていたのだろう。立原正秋という「雅号」での華々しい活躍の陰で、金胤奎は息をひそめて生きていたのだ。
いつしか読経の声がやんでいた。山門を出ると、若い僧か寺男か、畑で素服姿の男がニンジンを摘んでいた。私は動けなくなった。時が逆流し、山寺の空気に亀裂が走ったようだった。私の目は、その傍らに小さな男の子を見ていた。曰く言いがたい哀しみが湧きあがってきた。
多胡吉郎(作家)
(2013.9.11 民団新聞)