新羅千年の都・慶州。過去に何度も訪ねたが、今回はどうしてもこの場所に来たかった。善徳女王陵。ドラマ「善徳女王」を見て、朝鮮では初めて、東アジアでは2番目に誕生したという女王(最初は日本の推古天皇)に、関心をもったのである。
新羅第27代王の善徳女王(在位632年〜647年)は、神秘的な洞察力に富んでいた。ある時には唐から贈られた牡丹の花の絵を見て、蝶や蜂が描かれていないことから香りのない花だと喝破した。ある時には宮殿の西の玉門池にガマが群れているのを見て、西の国境に賊が迫っていることを察知、軍を派遣して百済の侵入兵を撃退した。
墓所も本人のお告げによって選ばれた。自分の死ぬ月日を予言して、「住利天(とうりてん)」に葬るよう告げた。臣下が場所を尋ねると、狼山の南側だと答えた。予言通りに亡くなったので、遺志のまま埋葬されたという。
仏国寺へ向かう国道の途中でバスを降り、案内板に従い小道を進んだ。やがて道は松林に入り、緩い登り坂になる。狼山は山というよりワニの背のような横長の丘だ。ここは古くから新羅の聖地だった。ある時、霧が山を包んで輝き芳香を放ち、天から神霊が降臨したようだったので、都を守る鎮山とされた。
やがて松林の先に、緑色に輝く大きな円墳が見えてきた。そこだけ燦然と日を浴び、神秘のドームが立ち現れたような興奮を覚えた。善徳女王の陵墓だった。
新羅の歴史において、善徳女王から文武王にいたる50年ほどが最も面白い。『三国史記』を読んでいても飽きない。それは高句麗、百済、新羅の三国のうち最も歴史が浅く小国だった新羅が、戦いに勝利し、三国統一をなしとげる過程でもあった。
善徳女王はその偉業の基礎を築いた王である。膽星台は慶州の有名な観光地の一つだが、この朝鮮最古の天文台を築いたのも彼女だった。天文観測は即、農業生産につながる。仏教を保護し、今なお慶州の名所である芬皇寺を建てた。このような女帝を戴いたからこそ、金捨信将軍を筆頭に男たちは奮闘し、国力が盛んになったのだろう。
だが、唐は王が女ではと露骨に疎んじた。臣下の毗曇も女王では国を治められぬと反乱を起こした。この乱のさなかに、善徳女王は没する。乱は金 信によって平定されたが、玉座をついだのは真徳女王という、またしても女帝だった。2代続く女王時代に、新羅は国権を拡張し飛躍的に発展した。
しばらくは陵墓のかたえにすごし、再び松林を通って帰路についた。バス通りに出る前のさら地に遺構を見つけた。四天王寺址。三国統一を果たした文武王が679年に建立した寺の跡である。三国統一後、新たな火種となった唐との対立の中、仏法による護国を願って建てられた。
仏典では四天王の上に住利天があるとされる。遺骸を住利天に埋めよと命じた善徳女王の予言者的遺志を、3代あとの王がきちんと受けとめた。狼山の尾根に眠る住利天の女王とその下の四天王によって、新羅は盤石の守りを固めた。死してなお、善徳女王は国の守護神として鎮座し続けたのである。
多胡吉郎(作家)
(2013.9.25 民団新聞)