掲載日 : [2007-11-08] 照会数 : 9661
フラッシュ同胞企業人(14) 独自営業で顧客開拓
[ 1940年横浜生まれ。横浜高校卒。76年に森島建興(横浜・舞岡)を設立。民団神奈川横浜支部の監察委員。1男2女、孫4人。 ]
横浜で生コンの製造・運送
森島建興の徐玉出社長
荷台にグルグルまわるドラムをつけて街を走る生コン車。誰もが目にしているに違いない。コンクリートミキサー車とも呼ばれ、セメントや骨材(砂や砂利)、水を練り混ぜたものが固まるのを防ぐためのものだ。この生コンの製造・運送を専業とする。
「生コンは鮮度が命。練りあがった製品を現場までいかにベストの状態で運ぶかが大切だ」。96年に日本工業規格(JIS)表示工場に認定されたことから、現場まで1時間以内に運搬することが義務づけられた。
コンピューターやセメント用サイロの導入により、製品の規格化が進んだ。「出荷と同時に伝票も出てくるので、量も時間も正確。JIS製品という看板のおかげで、顧客は安心して使えるし、公共工事も増えた」。
地域でトップに
営業エリアは横浜市戸塚区を中心に20〜30㌔圏内。大型車が入れない規制区域を対象に、小・中型ミキサー16台(4〜8㌧)を有し、代車を入れれば常時20〜25台を作動させている。近隣に競争相手が少ないこともあり、横浜市内の小型車では業界トップだ。06年度売上額は約9億円、社員20人余。
高校卒業後、親が営んでいた森島商店(磯子コンクリート)を手伝った。76年に独立、戸塚に森島建興を設立した。最初のころは建築資材販売および土木工事が中心。「車1台で、とにかく必死に働いた」。
81年に戸塚区舞岡にコンクリート工場を設立、生コンの製造販売を開始した。横浜市営地下鉄工事を小野田セメントが受注したが、以前に父親が小野田の特約販売店で働いていたのが縁で、その工事を手がけることに。小野田との関連では、韓国の双竜セメントから材料を一部輸入している。「今では韓国製品の品質がよいので、安心して使える」と評価する。
「当社の強みは営業力で、自分の顧客を半分ほど抱えている。これが最大の財産」と自負する。セメントメーカーが販売店を有するのが一般的だが、みずから開拓した顧客と直接取引するので、安く卸すことができ、収益率もよい。顧客が倒産すれば、もろに被害を受けるので、「市場調査は綿密に行っている」。
横浜市の骨材入札にも積極的に参加している。バブルのころ、民間の仕事の方が儲かるため、どの業者も役所の仕事にはそっぽを向いていた。そういう時でも、実績を積み重ねてきた。「人との関係は信頼の積み重ね以外にない」と強調する。
堅実経営めざす
バブルの時、生コン業界は需要が多く、それに合わせて工場が増えた。バブル崩壊の後遺症で、閉鎖する工場が相次いだ。工場同士の合併が増え、1社の生産能力は逆に高まった。
「現在、バブル時の生産能力のままなので、供給過多の状態だ。この先10年間で3分の1ほど淘汰される。その時点で需要と供給のバランスがよくなる」と予測する。
「生コンは無理をすれば、売り上げを増やすことは可能だが、利益率や品質を落とすようなことはしない」。いざという時に備え、4、5年前からアパートや駐車場の経営にも乗り出した。
「借金は残さず、堅実経営」を目指す。バブルがはじけ不景気だったときも、社員の給与を減額せず、少なくても賞与も欠かさず出した。「業者も、社員も、皆仲良く」がモットーだ。
(2007.11.7 民団新聞)