◆くまなく同胞宅へ…「水が命」刻々変わる必需品
福島県は地震・津波に加えて原発事故の被害が深刻だ。政府や東京電力の逐次対応によって、放射能を封じ込める作業がかえって放射能を拡散させてきた現実がある。風評被害も重なって、福島は取り残された感さえある。民団福島対策本部はそれでも、団員ら同胞の救済と安否確認に奮闘中だ。(編集長・鄭眞一)
命をつなぐ貴重な水が3月30日16時半、東京韓商から12㍑容器に300本届いた。折からの雨のなかを本部に待機していた10数人が一斉に作業、事務所では足らず階段にまで積み上げた。
この間にも、本部事務所には団員らの来訪が相次ぐ。日本人の夫に付き添われたニューカマーの女性も。乳がんで治療中というその1人は、女性用品を求めていった。いわき市の民団役員経営のP店で働く若い女性2人は、放射能の関係で営業不能のため郡山市に避難中だ。肌着や衣類、女性用品を持ち帰った。
禹日生福島団長は、もともといわき市在住で2年前に郡山市に移転した。いわき市から団長を頼ってくる人も多い。
◆避難勧告地域無念の迂回で
民団福島では保険代理業務も行っている。月末とあって事務処理もたまっていた。保険による補償を急ぐ同胞もいる。この日は保険業務に集中しなければならなかった。
その後、明日の救援物資の搬送ルートを検討した。いわき市と相双地区(相馬、南相馬、双葉町など)を優先することにした。この地区は原発事故による避難勧告対象地域でもあり、復旧が大幅に遅れている。いまだ断水の区域も多く、一刻も早く水を届けたい。
事故原発を挟んで北側が相双地区、南がいわき市だ。「飯舘村から避難基準超える放射能の検出、国際原子力機関(IAEA)が勧告」との報道があった。南相馬に行くには飯舘村を通らねばならない。涙の決断をし「いわき市へ」。
翌31日早朝、小雨のなか中央対策本部の緊急車両に水、カップ麺、サムゲタンなどを積み込み、銭相文事務局長、李在昌組織部長、中央支援要員の計4人で出発。一世帯の配布物資を水2ケース24㍑、辛ラーメン1ケース40食、サムゲタン6食と決めた。
いわき市内は郡山とは様相が明らかに異なる。ガソリンスタンドには車列が続き、繁華街の店舗もほとんどが閉めたままだ。あちこちに手書きの横断幕があった。「がんばっぺ! いわき」。
いわき駅前繁華街の「アリラン」は閉店したまま。経営者は韓国に避難したようだ。平下の町の鄭政明さん宅を訪れた。呼び鈴を押すと夫人が出た。29日に避難先から戻ってきたばかりという。物資を渡すと面食らうくらいに深々と頭を下げる。
◆総連の援助はきっぱり拒否
遊技業のKさんもつい先日に避難先から戻り、水道が復旧した29日から営業を再開した。Kさんは元総連で商工会役員もやったことがある。
「総連から物資を取りに来い、との連絡はあったが、誰が行くか。もらったら何を言われるか分からない。親戚も収容所で殺された。散々寄付させられたが、3代世襲、拉致、軍事挑発と話にならない」。改めて怒りがこみ上げてきたようだ。「民団の救援活動には頭が下がる」とぽつりと言った。
権孝志さんと妹の清美さんが共同経営する「焼肉權」(平字倉前)が見えた。アボジは福島本部団長をした故・根錫さん、兄は元青年会中央会長の清志さんだ。
水が出るようになって今日から営業を再開した。だが、県外避難者もいて店員不足。オモニの李栄子さん(73)も加勢していた。4月いっぱい、通常の10%引きで提供する。お客たちは「親しんだ味だ」「刺激のある食事が欲しかった」と喜んでいた。
◆無人の飲食店断水続く店も
飲食店を何軒か回ったが、店内にまったく人気がない。湯本地区へと向かう。「焼肉大門」(向田)は一部損壊し、断水もあって営業していない。2階の自宅から女将が顔をのぞかせ、水とカップ麺を喜んだ。外出中と思われる団員宅には、玄関先に物資とともに名刺とメモを残した。
小名浜に入った。千錫川さん宅(寺廻町)では、奥さんの李信子さん(40)が対応してくれた。ウリマルで、「コマッスンミダ」を連発。気丈で明るく、「物資を置いて行ってくれれば、近所の同胞には私が届ける」と申し出てくれた。
崔進さん宅(寺廻町)は不在だったが、李信子さんから早くも電話が入り、「崔さんの奥さんから電話があって、夜には帰宅するとのことなので、自分が預かった物資を届ける」とのこと。
小名浜でも津波の被害が大きい地区の同胞宅2軒を訪ねたが、いずれも不在。本部へ帰りながら戸別訪問を続けた。
韓美子さん(72=金山町月見台)は、家族3人で茨城に避難していたという。「赤ちゃんもいるので、水が何より嬉しい。ミルクもあればもっとよかった」。次に届けることにする。
植田町本町の成萬根ハラボジ(87)は夫婦2人住まい。床上まで水に浸かった。救援物資には「コマスミダ」を繰り返し、ハルモニは車が出発した後も手を振り、何度も頭を下げていた。
息子夫婦と3人暮らしの金和子さん(74=勿来町窪田橋塚)は不在だった。息子さん夫婦は1週間、東京に避難していたという。この日は日本人の奥さんに会えた。「コマスミダ。オモニに訪ねてきてくれたことを伝えます」と韓国語で答えてくれた。
この日の訪問は18軒。予定より多かった。前日までは8〜9軒が限界だったという。中型の福島本部の車両に比べて、中央対策本部のワゴン車は5倍多く積め、カーナビもあったからだ。
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避難勧告は聞けない…民団を頼る同胞がいる限り…
福島対策本部のスタッフは、中央対策本部が支給したジャンパーを着てから、勇気百倍になったという。「全国の民団が心を一つに救援活動をしている」
大震災から4週間。銭局長は「今でこそ、精神的な余裕もできたが、当初は本当に心細くて」と漏らした。「韓国大使館からの『事故原発から80㌔圏外への退避勧告』は思い出したくもない」。
相双地区同胞の大半は県外または30㌔圏外に避難している。だが、高齢者は自宅から離れたがらない。
高台に住む朴政雄さん(76)は、足が少し不自由だ。子どもたち夫婦は圏外に避難させた。玄関のダンボール箱には水を入れたビニール袋があった。毎日1回、給水車が500㍍先の坂下に来る。足が痛いときはその水もあきらめていた。水袋は苦肉の策だった。
80㌔圏外への勧告があった17日、ある民団役員がこう言った。「きょうだけはオレの言うことを聞け。山形に避難先を確保した。君たちも早くそこに行け」。局長は涙が止まらなかったという。
2人は役員のせっかくの配慮をあっさり断った。「ここを目指して避難してくる同胞もいる、どうするかは、自分たちで決めたい」
(2011.4.6 民団新聞)