<朝鮮奨学会前代表理事 崔根福>
120年の歴史持つ
毎年4億円近くを給付
皆さんは、公益財団法人朝鮮奨学会(=以下、奨学会)と聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか?
ほとんどの方は「朝鮮」という名称から、朝鮮総聯系あるいは北韓系の奨学団体ではないか? と思われるのではないでしょうか。しかし、それは全くの誤認識です。
実は民団系の組織人の中にも奨学会を朝鮮総聯系の奨学団体だと認識している方が数多くいます。そのような誤解・誤認により、奨学会への応募を忌避する民団系の子弟が多いことを在任中、韓国側代表理事として非常に残念に思っていました。
特に昨年は、新型コロナの感染拡大により、経済的に困難な状況に陥った方々が多くみられます。ワクチン開発が進み、今年に入り国によっては既にワクチン接種が行われているところもありますが、新型コロナの余波は2021年も継続すると思って間違いないでしょう。このような時期だからこそ奨学金に目を向けてほしいと思います。
奨学会の奨学金は、返済の義務のない給付型奨学金で家計の助けになるものです。後に返済しなければならない貸与型ではありません。
今後、多くの民団系のご家庭が奨学会に対する誤解を解き、その子弟が奨学会に応募し奨学金の恩恵を受けられるように、民団新聞の紙面を借りて、その一助になれば幸いに思います。
野口遵の寄金
奨学会に対する理解を深めるために、先ず奨学会の歴史について簡単にご説明します。
奨学会の歴史は、大韓帝国時代の1900年、日本に留学生が派遣されたときを淵源としています。ですから120余年の歴史がありとても古い奨学団体です。
1910年、韓国併合により、大韓帝国の国権が日本に奪われると、奨学会も日本の組織に組み込まれ、時代的な背景があるにせよ留学生を取り締まる日帝の戦時体制を支える役割を担った歴史もあります。
1926年、豊多摩郡淀橋町角筈にある土地建物を買収し、ここに事務所を置きます。同所が現在、奨学会のある新宿区西新宿の場所となります。
「朝鮮奨学会」という名称が使われるようになったのは1941年。
同年、日窒コンツェルンの創立者である野口遵は、私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、500万円を朝鮮総督府内の奨学会に寄付、これが奨学会の原資となりました。
一方、2500万円で野口研究所を設立。同研究所は現在も公益財団法人野口研究所として存続しています。
1943年、奨学会は文部省厚生省共管のもとに日本民法による「財団法人朝鮮奨学会」として認可を受けます。
戦後の混乱
1945年、日本の敗戦により、同年11月、奨学会は在日同胞を主とした財団に生まれ変わりましたが、冷戦による韓半島の混乱と対立は、1948年、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立で決定的となり、1950年の韓国戦争となって火を噴きます。
南北対立の影響は、奨学会にも暗い影を落とし、混乱を極めました。日本政府内には「奨学会を潰せ」という声もあったと聞きますが、1950年、奨学会は日本の文部省の単独管轄となり、役員は文部大臣の認可をうけて就任することになりました。
基本「3者構成」
そうした中、1956年、文部省大学学術局学生課長であった西田亀久夫(後に奨学会評議員)氏より「理事会の再建方針として在日朝鮮人の総意を結集する意味で、在日本朝鮮人総聯合会より3人、在日本大韓民国居留民団より3人、日本人学識経験者より3人の理事を推薦して理事会を構成(推薦は当初1回に限る)爾後は理事会が自主性をもって他の干渉をうけることなく運営するよう」にとの通達があり、1957年、理事会は再建されました。
ここに他に例をみない「韓国・朝鮮・日本」の3者構成という奨学会の基本組織原理が生まれました。奨学会は、理事が韓国側、朝鮮側、日本側それぞれ同数います。理事会ばかりでなく評議員会においても同数の3者構成となっており、その基本精神は大切に現在に引き継がれています。
<<<<<<<<<<◇2020年度の実績◇>>>>>>>>>>
2020年度奨学生選考結果は次のとおり
<高校生>
採用者数 621人
奨学金年間給付予定総額 7596万円
奨学金(月額)1万円。
<大学生・大学院生>
採用者数 902人(大学院生118人、学部生784人)
奨学金年間給付予定総額 3億1236万円
奨学金(月額)学部生25000円、修士・専門職課程4万円。博士課程7万円。
(2021.02.24 民団新聞)