掲載日 : [2020-12-01] 照会数 : 9699
新韓銀行 応援しよう<中>在日の祖国愛が結実…銀行設立、投資の足がかりに
[ 在日同胞の徐甲虎氏が寄贈した敷地に募金で建てた旧駐日韓国大使館 ] [ 「韓国を観光立国に」とソウルにロッテホテルをオープンした辛格浩氏(左から2人目) ] [ 88年ソウル五輪に100億円後援した在日同胞をたたえる記念碑 ]
祖国の発展を願う民団と在日同胞の寄付は、1948年ロンドン五輪の韓国選手団後援を皮切りに始まった。その後、6・25韓国戦争義援金、故郷発展後援金、各種災害義援金、公館寄贈、ソウル五輪募金、平昌五輪募金など、数え切れないほどの募金活動を展開した。
◆心は母国と一体
民団のほか、各在日同胞道民会(済州道民会、慶南道民会、慶北道民会、全南道民会、全北道民会、忠清道民会など)と個人による故郷への学校建設、病院建設、電気設備、電話設備、上下水道といった共用設備の建設費寄贈で故郷の環境改善を進めた。
さらに、韓日国交正常化を前後する1960年代から1970年代にかけて駐日韓国大使館をはじめ、大阪、横浜、名古屋、神戸、福岡、札幌、仙台、下関など各都市で総領事館建設のため募金運動と寄贈活動を展開した。在日同胞が寄贈した9つの公館の相場は韓国ウォンで2兆ウォンを上回る巨額と推定されている。
◆よくぞここまで
また、在日同胞は国際的な規模の行事がある度に、韓国を大々的に後援してきた。
特に88年のオリンピック開催地がソウルに決まった時だ。苦難を乗り越え、さらに躍進しようとする祖国の姿に、「よくぞここまで!」と、在日同胞たちの喜びは爆発した。民団では「在日韓国人後援会」を起ち上げ、大韓民国建国以来、最大規模となる100億円もの巨額の募金を集め、伝達した。
国家的次元の大規模建設事業はもちろん、万博など、国際イベント支援、韓国物産購買運動、自然災害への義援金など、祖国のためであるならば、いつも、限りない支援を繰り広げた。
解放後、世界最貧国だった母国だが、6・25韓国戦争でさらに荒廃した。そんな祖国を再建するために、在日同胞は資本と技術、経営ノウハウを提供するなど、祖国の経済発展のためであれば、どのような支援も惜しまなかった。
◆平昌五輪でふたたび
最近では、2年前の2018平昌冬季五輪・パラリンピックに民団が募金活動を展開して、寄せられた2億円を平昌五輪組織委員会に伝達した。
この募金では民団中央本部の兪在根常任顧問が「成功のために役立ててほしい」と1億円の誠金を呉公太・平昌五輪日本地域後援会会長(民団中央本部団長)に寄託した。
当時、世界が北韓に対して「圧力」か「争い」かと言われる中だった。兪氏は「私は、平昌五輪・パラリンピックは全世界から注目を受ける一大イベントになると思っていた。最初は不参加を表明する国々もあり、難しい五輪になると感じていた。しかし、韓国との対話を通じて北韓が五輪に積極的に参加することになったことで米国も日本も賛成しました。五輪は平和の祭典であり、この平昌五輪が対話へ流れを変える大きな一歩になると信じている」と述べている。
◆漢江の奇跡の原動力
「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国発展の原動力は、在日1世の貢献によるところが大きい。九老産業工業団地建設に積極参与し、日本で培った技術と血と汗と涙で得た結晶である資金を投入した。
また、70年代に展開された「セマウル運動」にも民団は積極的に呼応し全国の地方本部や支部が本国のセマウル部落と姉妹血縁を結び、故郷のインフラ整備のために多額の資金を寄贈した。
傘下団体である在日2世の青年会では「在日同胞60万人のセマウムシムキ(新しい心を植える)運動」を提唱、73年から「荒廃した母国の山河に緑を」と緑化運動に着手した。
◆革命的存在のロッテ
在日同胞は母国の経済発展ばかりか近代化にも大きく貢献した。代表的なのがロッテグループだ。民団中央の顧問でもある創業者の辛格浩氏は65年の韓日国交正常化により、韓国への投資の道が開かれると、日本でのビジネスと同様にまず製菓業に投資し、67年4月にロッテ製菓株式会社を設立、高品質ガムを販売し韓国でもガムのトップメーカーとしての名声を高めた。
その後、グループ化し、韓国最大の食品会社に発展した。食品のほか、観光と流通を韓国に必要な基盤事業と見なし「韓国を観光立国に」との信念を持ち、78年にソウル小公洞に地上38階、客室約1000室のロッテホテルをオープンした。
79年にはホテルに併設する形でロッテ百貨店を開業した。ホテル、百貨店とも当時存在した2~3倍の規模で、顧客サービスなど、質の面でも先進国のホテルや店舗と張り合えるようになり、韓国のホテルと百貨店の革命的存在となった。
◆夢は「同胞銀行」
そして忘れてはならないのが今では韓国を代表する銀行に発展した新韓銀行だ。82年7月7日、在日1世の技術と資本に加え、日本式顧客方式を取り入れてスタートした。韓国では初の100%民間投資による銀行だった。新韓銀行成功の秘訣は、顧客の目線に合わせた運営により顧客からの満足度が高い点だ。
この在日同胞による銀行の設立にも波瀾万丈の苦労があった。
64年に造成されたソウルの九老産業工業団地への在日同胞の進出における、融資などが本国企業と違い、大きな差別があった。そのためにも在日同胞に円滑に金融支援が受けられる銀行の設立が必要だった。
このため、本国に進出していた在日同胞企業家たちは73年に「同胞銀行設立推進委員会」を構成し、在日同胞本国投資のための銀行づくりの第一歩を踏み出した。
翌年2月に、「在日韓国人投資企業連合会」を発足させ、200社をこえる企業が加盟し、ソウルの韓国貿易会館内に「本国投資協会設立準備委員会」の事務所を設置した。
◆本国投資協会の設立
こうした動きの中で74年2月、「社団法人在日韓国人本国投資協会」が正式に設立した。初代会長に李煕健氏が就任した。
同協会は、母国進出の在日同胞と本国政府との円滑な協力体制を維持するための懸け橋として、本国進出のための各種支援及び各種相談斡旋、関係当局に対する建議・陳情等の窓口の一元化を目的として、経済企画院長官の社団法人許可を得て非営利法人として出発した。
こうした中、同協会では、僑民銀行設立許可の請願を行った。しかし、何度提出しても許可を得ることができなかった。
そんなある日、李煕健氏を含む民団代表や在日企業家たちが朴正煕大統領との面談の機会を得た。
その席で李会長は「本国に投資した在日同胞は金融支援と資本確保を願っています。そのための金融機関の設立が必要です。在日同胞が本国の経済発展のために尽力するためにも必要なのです」と願い出た。
朴大統領は銀行の代わりに他の形の金融会社の設立を許諾した。
そこで、目標を「まずは短期金融会社の設立」に切り替えた。そして77年8月、短期金融業許可を得て、「第一投資金融株式会社」が営業を開始した。これが事実上の在日同胞投資家のための初の金融機関で、後の新韓銀行の母体となったのだ。この後、「同胞銀行設立推進委員会」を構成してから10年近くの歳月を経る中、在日同胞の永年の宿願である「銀行設立」へ一致団結を強化したのだ。
次号で新韓銀行設立までの経緯を説明したい。
(2020.12.02 民団新聞)