掲載日 : [2022-10-19] 照会数 : 1884
鉄道具など介して韓日交流…国立歴史民俗博物館「加耶展」開幕
[ 大加耶圏各地の墳墓から出土した倭系の甲冑 ]
遺物約220点 王権外交ばかりか集団、個人間でも
【千葉】古代日本の倭が最も緊密に交流した社会の一つ、加耶の墳墓から出土した遺物約220点をそろえた国際企画展示「加耶=古代東アジアを生きた、ある王国の歴史」が4日から国立歴史民俗博物館(略称「歴博」、佐倉市)で始まった。加耶の歴史を体感しながら、いにしえから現在、そして未来へと続く韓日の交流に思いをはせることができる展示構成となっている。
加耶とは4~6世紀に韓半島の南部で興亡した国々の総称。考古学的には金官加耶、大加耶、小加耶、阿羅加耶などの国が確認されている。日本はおおむね古墳時代に相当し、加耶との交流を通して須恵器と呼ばれる硬い焼き物、鉄の道具、金工、馬の飼育など当時の先進の情報や技術、道具を入手した。
展示は6章立て。加耶の文化的特性から始まって歴史、国際交流、対外関係、滅亡までを時系列で描く。倭との関係は3章「加耶人は北へ南へ‐4世紀」と4章「加耶王と国際情勢ー5世紀~6世紀初め」で紹介している。
4世紀に加耶諸国の中心であった金官加耶は鉄を材料に倭や中国、あるいは北方の中原地域と活発な対外交易をおこなっていた。これは王陵群の金海大成洞からの出土品でうかがえる。
当時の倭王権とのつながりを想定しうる副葬品は、さまざまな器物を模した石製品、盾や矢筒に取り付けた青銅製の飾り(巴型銅器)、銅鏃など。
ただ、金官加耶と倭の関係は王権間の外交にとどまらなかった。韓半島の南海岸各地で出土する倭系の土器は、それぞれの社会に属する集団や個人どうしの日常的な交流も盛んであったことを示唆しているという。
大加耶が勢力を誇るようになる5世紀になると、東アジア間の交流は最盛期を迎える。倭ともひんぱんに交渉を重ねたようだ。このことは大加耶圏の各地の墳墓から出土する倭系の副葬品が物語る。
代表的なのが甲冑だ。加耶に渡り、有力者に仕えたりして生涯を終えた倭人、もしくは倭と深い関係にあった現地の有力者が遺したものであろうと推測されている。このほか、沖縄など南方の海で採れるイモガイをはめ込んだ馬具の部品(辻金具)なども出土している。
一方、倭においても大加耶系のアクセサリーや馬具などが各地の墳墓から出土している。4世紀以来の加耶とのひんぱんな交渉によって倭の各地に渡来人集団が定着し、現地の人々と「雑居」するなかで製陶、鉄生産、金工、馬の飼育、土木技術などさまざまな情報や技術、道具を伝えていったとされる。古墳時代の5世紀が倭にとって「技術革新の世紀」と称されるゆえんだ。群馬県高崎市の剣崎長瀞西遺跡には渡来人たちの姿がうかがえる遺跡が確認されている。
国際企画展は歴博と大韓民国国立中央博物館、九州国立博物館の3者共催。12月11日まで(休館日毎週月曜日、休日の時は翌日休館)。9時30分~16時30分。問い合わせはハローダイヤル050・5541・8600。