掲載日 : [2021-08-25] 照会数 : 6409
関東大震災時の同胞虐殺犠牲者…忘れられた「内鮮人之墓」再建
[ 再建した「内鮮人之墓」に手を合わせる杉原文哉さん ]
地元有志が発起人に
語り継ぐ負の遺産…千葉県成田市猿山共同墓地
【千葉】1923年の関東大震災時に旧下総町(現・成田市)で犠牲となった朝鮮人を悼む小さな墓標「内鮮人之墓」が昨年11月、地元篤志家の手で再建されていたことが明らかになった。この墓標は地元猿山地区にある薬師堂共同墓地内の無縁墓石群の中に無造作に放置されていたのを杉原文哉さん(70、下総郷土史研究会代表)が見つけだし、「負の遺産」として後世に語り継いでいくことにした。
「内鮮人之墓」はJR成田線滑河駅近くの薬師堂、猿山共同墓地近くの「猿山コミュニティセンター」の右側「一等地」に再建された。敷地は猿山墓地管理員会が提供した。「再建趣旨」を見ると、「忘れてはならない関東大震災の『負の遺産』としてここに墓碑を再建する」に至ったことがわかる。
犠牲となったのは飴売りなどをしていた2人。2人は滑河駅近くの木賃宿「幸盛屋(こうもりや)」に止宿していた。関東大震災が発生した9月1日、「東京で朝鮮人が暴動を起こした」とのデマを真に受けた住民は殺気立っていた。
一部住民が「何か起こらないうちに警察に保護してもらったら」と提案。所轄の佐原警察署に依頼するも「対応できない」との返答があり、隣の成田警察署に保護されることになった。
滑河駅は群衆でごった返していた。成田駅に護送されるひとりが身の危険を感じたのか、逃げ出したところを入線してきた列車にひかれて轢死した。もう一人も近くにいた群衆に撲殺された。2人の遺体は猿山の墓地へ無縁仏として埋葬された。
地元ではこの忌まわしい事件を口にすることはタブーだったようだ。
杉原さんは子どものころ、両親から関東大震災時の朝鮮人虐殺について聞いて育った。下総地区で何人かが犠牲となり、近くの墓に眠っていることは耳にしていた。下総郷土史研究会で活動するようになってから地元の歴史を掘り起こすようになり、犠牲者のお墓を見つけ出そうと2019年から調査を開始した。
当時は墓の場所すら知らなかった。手がかりを探していたところ、杉原さんが「歴史の大師匠」と仰ぐ郷土史研究家の磯部大暢さんから「無縁墓地に行ったのでは」と聞き、昨年になって苦労の末にやっと見つけ出した。墓碑は他の墓石に重なるように放置されていた。
墓碑は仙台石(黒色粘板岩)の小片でつくられた簡素な板状。碑表には「内鮮人之墓」、裏面に「施 四谷 木川」と2行に線刻されている。木川さんはいまも四谷で石材業を営む木川利一さんの曾祖父にあたる。
墓標を「朝鮮人之墓」とせず「内鮮人之墓」よした理由については、磯部さんが「日本国内で暮らす朝鮮の同胞」と捉えたのではと推測している。
9月に「供養祭」
杉原さんは「関東大震災時の朝鮮人虐殺をいまも記憶している人がどれだけいるのか。日本の国民は自分たちに都合の悪いことは記憶から遠ざけようとする。忘れてはならない歴史的遺産としてもっと周知しなければと思った」と建立の趣旨を語った。今年の供養祭は9月4日に営む。
(2021.08.25 民団新聞)